2022年12月09日

オコエが巨人、陽川は西武へ 初実施の「現役ドラフト」―プロ野球

 プロ野球で出場機会が少ない選手の移籍活性化を目的とする「現役ドラフト」が9日に初めて実施され、12人の移籍が決まった。2015年の新人選手選択会議(ドラフト会議)で1位指名を受けた楽天のオコエ瑠偉外野手は巨人へ移籍する。
 1軍で一定程度の実績がある選手の移籍もあり、阪神の陽川尚将内野手は西武が、巨人の戸根千明投手は広島が獲得した。
 現役ドラフトは非公開で行われ、各球団が事前に2人以上の対象選手のリストを出した上で、少なくとも1人を獲得して1人を放出するルール。フリーエージェント(FA)権を行使したことがある選手や育成選手、外国人選手などは対象外だった。希望球団のみが参加する2巡目の指名は実施されなかった。[ 12/9(金) 18:26配信 時事通信 ]

進行はスムーズ、効果未知数 プロ野球現役ドラフト
 初めて実施された現役ドラフトは複雑な手順だったが、事前に対象選手のリストが手元に届くこともあり、各球団はしっかり準備できたようだ。運営はスムーズに行われた。
 制度の改善や継続については今後も検討を重ねる必要がある。ソフトバンクの三笠ゼネラルマネジャーは「2巡目がなかったのはどの球団も保守的な対応を取ったからだと思う」と言い、回数を重ねれば成熟していくとの見方だ。一方、ある球団の幹部は、必ずしも補強ポイントに合致するとは限らないとした上で「選手の出場機会につながるのか、球団にとってプラスになるのかは疑問」と指摘した。
 オコエを放出した楽天の石井監督は「彼の能力を開花させられる可能性もある」と期待しつつ、制度については「トレードと何が違うのかということも含めて素晴らしいものになれば」。労組日本プロ野球選手会の森事務局長は「移籍が決まった選手全員に連絡したら、みんなポジティブに捉えていた」と語った。[ 12/9(金) 21:22配信 時事通信 ]

選手会からの要望もあって初めて開催に至った現役ドラフト。「少なくとも1人を獲得して1人を放出する」という条件下で非公開に行われる会議。ドラフト会議以上に気がかりで,17時の情報公開まで気になって仕事も手につかない←くらい。当初は戦力外選手の押しつけとなるのではないかと危惧していたのですが,実際終わってみると「出場機会が少ない選手の移籍活性化」という目的は達せられた感を強く感じました。改善点があるとすれば実施時期でしょうか。どうせ開催するならドラフト会議終了後から合同トライアウト前が妥当な気がします。

当該選手への通告は事前に行われたとか行われないとか。通告されたが指名された選手の来季へのモチベーションというのは如何なるものか。。

【現役ドラフト】渡辺大樹がヤクルトからオリックスへ「更に努力して恩返しができるように」
 出場機会の少ない選手の移籍活性化を目指す「現役ドラフト」が9日、開催され、ヤクルトはロッテから成田翔投手を獲得。渡辺大樹外野手がオリックスへ移籍となった。
 7年目の渡辺は今季、49試合に出場し、打率1割2分5厘、0本塁打、2打点。コメントは以下。
 「東京ヤクルトスワローズでは7年間、大変お世話になりました。プロに入って基礎からいろいろなことを学ばせていただきました。次にお世話になる球団は、今年日本一になっていますので、更に努力して今まで指導してくださった方々や応援してくださったファンの方々に恩返しができるように頑張ります。今まで本当にありがとうございます」[ 12/9(金) 18:15配信 スポーツ報知 ]

49.渡邊大樹(2016-2022)
専大松戸高から2015年ドラフト6位指名。背番号は「49」。中学3年時新潟ビックスワンで開催された陸上の全国中学総体に出場し,200メートル走で決勝まで進出した快足が自慢。入団当初は内野手。

2016年イースタンに74試合に出場し打率.256,3本塁打,10打点,4盗塁。オフに開催されたアジアウインターベースボールリーグのNPBイースタン選抜に選出された。

2017年9月3日。怪我のデビット・ブキャナンに代わり初の一軍登録。同広島戦(神宮)でプロ初出場。2年続けてアジアウインターベースボールリーグNPBイースタン選抜に選出される。

2018年。村上宗隆の加入もあって外野手に挑戦。主に外野としてチーム最多のファーム111試合に出場。打率.256,3本塁打,37打点,15盗塁。
DSC03911.JPG

DSC01450.JPG
2019年より外野手登録となり,4月29日塩見泰隆との入れ替わりで2年ぶりとなる一軍登録。5月10日巨人戦(東京ドーム)で田口麗斗からプロ初安打・初本塁打を放つ(当時からこんな複雑なツイートをしていたの証拠)



2020年。開幕前の練習試合6月7日巨人戦(東京ドーム)でまたしても田口から本塁打を放ち,左キラーぶりをアピール。

自身初の開幕一軍を掴み,試合終盤の代走ならびに外野の守備固めとして33試合に出場。チームにとっても様々な意味で上田剛史を追いやった。

DSC07047.JPG
2021年。ベンチからの信頼も厚く,主にドミンゴ・サンタナの守備固めとして自己最多の94試合に出場。

7月7日阪神戦(神宮)では決勝タイムリーを放ちお立ち台にあがるなど脇役としてチームの優勝及び日本一に貢献。オフには結婚も発表された。

DSC03447.JPG
しかし2022年同じ外野手のルーキー丸山和郁が加入。左右の違いはあるが,俊足と堅実な守備に加え,長打力と勝負強さに勝る丸山和に代走と守備固めというポジションを奪われた形に。8月5日に登録抹消されると以降一軍での出番は無くなっていた。

【記録】
 ・初出場・初打席:2017年9月3日広島戦(神宮)
 ・初安打・初打点・初本塁打:2019年5月10日巨人戦(東京ドーム)[田口麗斗]
 ・初盗塁:2019年8月1日DeNA戦(横浜)[武藤祐太-戸柱恭孝]


7月22日広島戦(神宮)。見聞LOGに「7回表の守備からサンタナに代え渡邉を入れたのも逃げ切りの証。ただ6回裏は山崎で切れており,7回裏一人出ればサンタナに回るということで,もう1イニング待っても良かったのか。でももし丸山和が居ればそんなに遜色は無いだけに,打率.077の邉の打撃(セーフティ試みるも投手の正面過ぎてアウト)が実に物悲しい。」と記したが,このあたりから渡邊と丸山和の立場の逆転を感じていた。

それでもオリックス福良GMは「守備と走塁。それは十分行けるということで」と評価しており,あくまで現状のヤクルトではどうしてもポジションが被ってしまうだけで,チーム変われば渡邊と言うピースはしっかり機能するはず。一流の脇役に徹っせられる渡邊だけに,この移籍がプラスとなることを祈りたい。そして来年日本シリーズで対戦してその強肩を見せてほしい!そう願うし祈ります。

一方ヤクルトが獲得したのはロッテの成田翔。小川淳司GM「初めての制度で、いろんな制約がある中で希望の左投手は取った」。
渡邊と同学年。秋田商で石川二世の小柄な左腕として旋風を起こしたことは鮮明に残っています。それでもプロでは未勝利で,今季は一軍登板なし。投げる位置を試行錯誤したりと(高校時代から較べると)伸び悩みの印象。環境変わって,先輩石川さんとの出会いでこちらも現役ドラフトがいい方向に機能しますように。
東京 ☀ | Comment(0) | SWALLOWS Memories | at 23:59 | 更新情報をチェックする

2022年11月30日

ヤクルトのマクガフ退団 プロ野球

 ヤクルトの奥村政之国際グループ担当部長は30日、スコット・マクガフ投手と来季の契約を結ばないことを明らかにした。
 米大リーグへの復帰を目指すという。
 米国出身のマクガフは2019年にヤクルト入りし、抑えとして21年からのリーグ連覇に貢献。通算236試合登板で15勝8敗80セーブ、59ホールドだった。[ 11/30(水) 19:11配信 時事通信 ]

37.スコット・マクガフ(2019-2022)
2018年12月25日に獲得が発表された。背番号は「37」。

DSC01040.JPG
来日当初は中継ぎだった。2019年3月30日阪神戦(京セラ)2番手投手として来日初登板。4月10日広島戦(マツダ)で5番手として9回裏を無失点に抑えると,直後の10回表に打線が一挙12得点を挙げ来日初勝利を挙げる。しかしチームは投手の駒不足。リードビハインド関係なく毎日のようにデビッド・ハフ,マクガフ,ハフマクガフが起用されていた日々。7月4日広島戦(マツダ)で体調不良を訴えた石山泰稚の代役として来日初セーブをマーク。オールスターにもインフルエンザ罹患の石山の代役として初選出された。一時ハフに抑えを譲った時期もあったが,計65試合に登板し,6勝3敗18ホールド11セーブ。

DSC06589.JPG
2020年はセットアッパーとして君臨。無人の一塁への牽制球事件もあったが,50試合に登板し4勝1敗。リーグ4位の27ホールドポイントをマーク。オフに新たに2年契約を結んだ。
DSC00587.JPG

DSC07035.JPG
2021年もセットアッパーとして起用されていたが,石山の不振により5月後半からストッパーに配置転換される。以降の活躍はもはや説明不要だろう。9回にこの曲が流れればもう何の心配もなかった。


DSC07118.JPG
6月には月間10セーブ。これは2000年5月・2001年8月高津臣吾,2005年8月石井弘寿,2009年5月林昌勇,2012年9月トニーバーネットの月間9セーブを上回り球団新記録。東京オリンピックアメリカ代表にも選出され銀メダルを獲得。66試合に登板。3勝2敗31セーブ14ホールド。
クライマックスシリーズファイナルで胴上げ投手。日本シリーズでは2敗を喫するも,第6戦で延長10回途中から2回1/3を無安打無失点に抑えきり,勝利投手と胴上げ投手に。

不動の守護神の座を確固たるものとした2022年。
DSC04538.JPG
5月31日ロッテ戦から自己最多記録を更新する10試合連続セーブ。8月17日阪神戦(神宮)で両リーグ最速の30セーブに到達。球団では2004年五十嵐亮太以来18年ぶりとなる両リーグ一番乗り。2年連続30セーブは2011年林以来11年ぶり球団史上4人目。55試合に登板し2勝2敗38セーブ4ホールドと圧巻の成績だった
日本シリーズ第5戦。1点リードの9回裏に登板。自らの送球エラーで同点とされ,吉田正尚にサヨナラホームランを浴び敗戦投手に。シリーズ史上初となる救援投手として通算3敗目を喫した。第6戦でも1点ビハインドの場面で登板したが再び犠打処理を一塁送球エラー。第7戦のベンチ入りメンバーから外れていた。
DSC02514.JPG

奧村国際グループ担当部長「(来季マクガフと)契約はしないことになります。退団になります。考え方に開きがある状況でここまできた。本人と話したけど、大リーグ復帰を目指して挑戦したいということだった。本人の希望する方向を後押ししようということになった。いい話がきっとあったんでしょう。3Aの無名の選手が弱いスワローズに入って、頂点に引き上げた選手なので、感謝してもしきれない。本当に野球内外で素晴らしい選手だった」
2015年オフのトニー・バーネット同様に胴上げ投手のメジャーへの復帰を後押しする形となった。トニーもマイナーからヤクルトでジャパニーズドリームを掴みメジャーへ復帰した。スコットも年齢的にラストチャンス。快く送り出したいという気持ちしかない。もし一塁送球イップスに陥っていたとしたら,来季犠打攻めされただろう。それによって批難を浴びるような光景は見たくなかっただけにどこか安堵の気持ちもある。

全てリリーフで通算236試合に登板し15勝8敗80セーブ。防御率2.94。何より特筆すべきはこの4年間一度も登録抹消が無かった(五輪休止期間除く)ことだ。2年連続最下位と2年連続優勝。弱い時から支えてくれたマクガフ。
順当にいけば清水が守護神の座に収まるのだろう。しかし経験の石山がそこを奪い返すのか。木澤を抜擢するのか。あるいは栗林大勢のように吉村が一気にその座に就くのか。
いずれにしてもチームは3連覇を目指すうえで大きな転換期を迎えたことだけは確かだ―。

【記録】
 ・初登板:2019年3月30日阪神戦(京セラドーム)
 ・初奪三振:2019年4月3日DeNA戦(神宮)[M口遥大]
 ・初ホールド:2019年4月4日DeNA戦(神宮)
 ・初勝利:2019年4月10日広島戦(マツダスタジアム)
 ・初セーブ:2019年7月4日広島戦(マツダスタジアム)
 ・オールスター出場:3回(2019・2021・2022年)

年度登板勝利敗北SHHP投球回安打本塁三振失点自責防御率
20196563111824682/37126425243.15
2020504102327464245220203.91
20216632311417641/34377619182.52
202255223846532/33955916142.35
2361588059742322/31951825180762.94
東京 ☀ | Comment(0) | SWALLOWS Memories | at 23:59 | 更新情報をチェックする

2022年11月22日

ヤクルト キブレハンが自由契約に 8月27日のDeNA戦では1試合3本塁打

 日本野球機構(NPB)は22日、ヤクルトのパトリック・キブレハン外野手(32)を自由契約選手として公示した。ヤクルトは退団する。
 キブレハンは今季途中に加入。8月27日のDeNA戦では初本塁打を含む3本塁打と活躍した。今季成績は29試合に出場して打率・241、6本塁打、14打点。[ 11/22(火) 15:25配信 スポニチアネックス ]

2.キブレハン(2022)
 開幕から2週間でサンタナが離脱。アメリカでクリーニング手術を受け,全治不明。そうした段階で獲得したキブレハン。奥村編成部国際担当部長は「体形的にも、パワー的にも(05〜08年に在籍した)リグス風な選手。勝負強さとか、試合の中で、しぶとさがあって。非常に好感をずっと持って見続けた選手。タイミング的にも、とてもいいタイミングで彼を呼ぶことができた」と評価していたが,確かに風貌もどことなくリグスに似ており,背番号も奇しくも同じ「2」番に。来日は5月末。しかし来日から一ヶ月経ってもファームでの打率は.200台を推移。本塁打も僅か1本と助っ人としては物足りない成績。それでも暑くなるにつれ打率を上げてきて,7月5日に初の一軍昇格。しかし10打席0安打と結果を残せず,再来日したサンタナと入れ替えで7月17日一軍登録抹消。外国人枠の関係もありこれでお役御免かと正直思ってしまった。ところが・・

コールの抹消もあって8月19日に再昇格すると,20日中日戦(バンテリンドーム)で小笠原慎之介から来日14打席目でようやく初安打。そこから左腕投手先発時にはスタメン起用されるようになり,度肝を抜かれた8月27日DeNA戦(横浜)の3連発。翌28日も4打数2安打。これですっかっり浜専が定着。対DeNA戦に20打数8安打5本塁打打率.400という相性を発揮し,いつしか登場曲は湘南乃風に。

対チーム別成績打率試合打席打数安打本塁打打点三振出塁率長打率OPS得点圏
巨人.000613120015.000.000.000.000
DeNA.400521208583.4291.151.579.500
中日.286722216013.318.429.747.333
阪神.154613132004.154.154.308.000
広島.235518174146.278.412.690.286
球場別成績打率試合打席打数安打本塁打打点三振出塁率長打率OPS得点圏
東京ドーム.0004660002.000.000.000.000
神宮.0741028272248.107.296.403.143
横浜.500313126343.5381.251.788.500
バンテリンドーム.375517166012.412.563.974.500
甲子園.2503882002.250.250.500.000
京セラD大阪0002760013.000.000.000.000
マツダスタジアム.5002884141.500.8751.375.500

この極端な成績。キブレハン無くして優勝は無かったかも知れないし,キブレハン無ければ日本一になっていたかも。どこか憎めない。不思議助っ人パトリック。
【記録】
 ・来日初出場・初打席:7月5日巨人戦(東京ドーム)
 ・来日初先発:7月6日巨人戦(東京ドーム)
 ・来日初安打:8月20日中日戦(バンテリンドーム)[小笠原慎之介]
 ・来日初本塁打・初打点:8月27日横浜DeNA戦(横浜)[石田健大]

50.スアレス(2022)
DSC05320.JPG
右のロベルト・スアレスに代わって左のアンドリュー・スアレスの獲得が発表されたのは2021年12月20日。5月25日日本ハム戦(神宮)で初登板初先発。その最初の打者松本剛に先頭打者本塁打を浴びたが,初登板で対戦した第1打者に被本塁打はプロ野球史上80人目。6月26日巨人戦(神宮)まで全6試合に先発登板。最長で5回,防御率は6.53。先発として全く役目を果たせないまま6月27日に登録抹消。今季最終の10月3日DeNA戦(神宮)で来日初の中継ぎ登板で適性を探ったが,ポストシーズンも出番は無かった。
しかしスアレスが登板した6試合。不思議とチームは6戦6勝だった。これまた謎の力を発揮してくれた助っ投。
【記録】
 ・初登板・初先発登板:5月25日日本ハム戦(神宮)
 ・初奪三振:同上[清宮幸太郎]
 ・初打席:同上[上原健太]

63.コール(2022)
DSC04274.JPG
2021年12月7日に契約締結。4月22日阪神戦(神宮)で来日初登板。しかし1回4失点と大炎上。長い髭を蓄えた風貌も相まって●ノーアを彷彿とさせたが,その後は中継ぎとして34試合2勝0敗6ホールド,防御率2.75と安定感ある投球でブルペンを支え続けた。
ところが8月10日広島戦(マツダスタジアム)での登板を最後にベンチを外れ,16日に登録抹消。チーム状況もあり先発転向のためか?などと憶測を呼んだが,以降ファームでも登板無いまま9月24日に再検査のため帰国。ウェーバー公示の手続きがとられた。
【記録】
 ・初登板:4月22日阪神戦(神宮)
 ・初奪三振:同上[梅野隆太郎]
 ・初勝利:5月14日広島戦(マツダスタジアム)
 ・初ホールド:5月15日広島戦(マツダスタジアム)
東京 ☁ | Comment(0) | SWALLOWS Memories | at 23:00 | 更新情報をチェックする

2022年10月28日

東大出身の宮台が引退へ プロ野球・ヤクルト

 ヤクルトは28日、宮台康平投手(27)、鈴木裕太投手(22)、育成選手の内山太嗣捕手(26)と来季の契約を結ばないと発表した。
 東大出身の宮台は現役を引退する意向。鈴木には育成契約を打診している。[ 10/28(金) 15:40配信 時事通信 ]

68.宮台康平(2021-2022)
2020年合同トライアウトを経て,ヤクルトが支配下選手登録での契約を打診し,12月23日正式契約。背番号は「68」。球団では初の東京大学出身選手となった。

2021年5月29日〜6月8日,9月20日〜24日と一軍登録されたが,いずれも登板機会なく抹消されていた。イースタン公式戦には27試合に登板し,1勝1敗1セーブ,防御率2.13という成績を残し,2022年春季一軍キャンプに抜擢された。

しかしキャンプ終盤に足首捻挫で二軍落ち。ファームでは中継ぎとして登板を重ねていた。7月にチーム内で新型コロナウイルスの陽性反応者が多数出たことで,特例2022の適用によって7月12日一軍昇格。
7月14日中日戦(バンテリンドーム)で日本ハム時代の2018年8月23日ソフトバンク戦以来4年ぶりとなる一軍登板。1回を三者凡退。17日DeNA戦(横浜)で2試合目の登板。しかしイニングを跨いだ回に連打に暴投も絡んで5失点で降板。翌日に登録抹消となっていた。

球団は来季も戦力として考えており,本人から引退の意向を伝えられ慰留したが,宮台の決断は変わらず現役引退となった。

025.内山大嗣(2021-2022)←118.(2019-2020)
BCL栃木ゴールデンブレーブスから2018年育成ドラフト1位指名。

2019年。43試合45打数6安打,打率.133,0本,0打点。2020年。47試合84打数23安打,打率.274,0本,3打点。2021年37試合52打数12安打,打率.231,0本,3打点。
育成選手制度の規定に沿って自由契約となったが,育成再契約を結んだ2022年。46試合101打数30安打,打率.297,0本,14打点。フェニックスリーグにも参加していたが,本日の通告となった。登録は捕手ながら内野もこなしていた。

鈴木のほか近藤,山野にも育成契約が打診されており,来季は丸山翔,下,松井聖,岩田。そして育成ドラフト指名の橋本と計8名(投5・捕2・外1)の育成選手を抱えることになりそう。
東京 ☀ | Comment(0) | SWALLOWS Memories | at 22:23 | 更新情報をチェックする

2022年10月04日

寺島ら戦力外 プロ野球・ヤクルト

 ヤクルトは4日、寺島成輝投手(24)、中山翔太外野手(26)、吉田大成内野手(27)と来季の契約を結ばないと発表した。
 寺島はドラフト1位で2017年に入団。3人とも今季は1軍での出場がなかった。[ 10/4(火) 18:03配信 時事通信 ]

18.寺島成輝(2017-2022)
2016年ドラフト1位指名。履正社高校で甲子園を沸かせ,高校ナンバーワン左腕という評価に相応しいエースナンバー背番号「18」が与えられた。

DSC00818.JPG
ルーキーイヤー2017年。ファームでの実戦デビューは8月。そこから段階を踏み,シーズン最終盤の9月30日中日戦(神宮)でプロ初登板・初先発。福田永将に2ランを浴びるなど30/3回5失点KOというデビュー戦となったが,オフには台湾で開催されたアジアウインターベースボールリーグに選出されるなど,2年目以降の飛躍が期待された。

2018年7月1日阪神戦(神宮)でプロ2試合目の先発を託されたが2回KO。結局一軍登板はこの1試合のみ。2019年はリリーフで3試合登板。

DSC05932.JPG
それでも4年目となる2020年に自身初の開幕一軍を果たすと,7月7日中日戦(ナゴヤドーム)では同点の9回から登板し,延長10回に味方が勝ち越したことでプロ初勝利をマーク。中継ぎとして30試合に登板。防御率2.48,3ホールドと安定した成績を収めた。

2021年も開幕一軍メンバー入り。3月27日阪神戦(神宮)で2イニングを投げたが翌日に登板抹消。結局この1試合の登板のみ。

2022年は5月6日に一軍登録されるも,登板機会無いまま10日に登録抹消。ファームでも防御率6.47。ドライチ左腕・エースナンバー背番号18は6年間もがき苦しんだ。
【記録】
 ・初登板・初先発・初打席:2017年9月30日中日戦(神宮)
 ・初奪三振:同上[京田陽太]
 ・初勝利:2020年7月7日中日戦(ナゴヤドーム)
 ・初ホールド:2020年7月8日中日戦(ナゴヤドーム)

8.中山翔太(2019-2022)
法政大学から2018年ドラフト2位入団。背番号は武内晋一の引退で空き番となった「8」。

DSC00121.JPG
2019年6月9日に初めて一軍登録されると,その日の8回裏石山泰稚の代打として起用されると,プロ初打席でタイムリーを放つという華々しいデビュー。6月16日埼玉西武戦でプロ初本塁打。35試合で打率.289,5本塁打,14打点と非凡な長打力を見せた。

DSC00119.JPG
2020年。9月に大杉勝男氏と並び球団最多タイとなる月間3本の代打本塁打を記録。ヒット11本中4本が本塁打と持ち味の長打力を如何なく発揮した。それでも打率.229が表すように確実性が課題であることは明白で,守備にも不安を抱えていた。

2021年。開幕3試合目に骨折した坂口智隆に代わり3月30日に一軍昇格。翌31日には前日スタメンの西田明央,内川聖一,山田哲人,西浦直亨,青木宣親が特例2021で登録抹消となったこともあり,6番レフトでスタメン起用された。しかし出場9試合で11打数1安打。打率.091。隔離期間の明けた青木と入れ替わるかたちで,4月16日に登録抹消となった。

2022年7月コロナ陽性者が多数出た際,試合に出られるコンディションにありながら一軍登録されなかったのは高卒ルーキーの小森航太郎,中山,そして吉田大成の3名。この3人が今季一軍出場の無い野手でもあった。
DSC07091.JPG
【記録】
 ・初出場:2019年6月9日オリックス戦(神宮)
 ・初打席・初安打・初打点:同上[ディクソン]
 ・初先発:2019年6月11日楽天戦(ヨーク開成山)
 ・初本塁打:2019年6月16日西武戦(メットライフ)[松本直晃]

66.吉田大成(2019-2022)
2018年ドラフト8位指名。支配下登録選手としては全12球団の最後(83番目)で指名され,平成最後のドラフト指名選手となった。背番号は「66」。

DSC07091.JPG
2019年。春季浦添キャンプスタート。開幕一軍は逃したが,6月24日に初めて一軍登録されると,登録即「7番サード」スタメン起用。その日の第3打席でプロ初安打と初打点を記録。9月18日阪神戦(甲子園)でプロ初猛打賞。一軍では13試合,打率.188だったが,イースタンでは,規定打席には届かなかったものの,101試合打率.238,1本塁打,10盗塁という成績を残した。

2020年。吉田大喜が入団したことで,スコアボードには「吉田大成」と表記されるように。オープン戦12試合で打率.310,9打点とアピールに成功し自身初の開幕一軍入りを果たすも,翌々日21日に登録抹消。7月28日に再登録されたが,8月10日に登録抹消。9打数1安打,打率.111に終わった。

2021年は6月21日に一軍登録されると,不調の西浦に代わってショートスタメン機会を得て,7月13日巨人戦(東京ドーム)ではプロ初本塁打を放つ。8月30日に登録を抹消されたが,元山飛優の故障離脱に伴い,10月23日に一軍再登録。遊撃を守れる貴重なバックアップ要員として日本シリーズにも全試合ベンチ入りした。

2022年も春季一軍キャンプスタートだったが,オープン戦で同じ右投げ左打ちの長岡秀樹が頭角を現したこともあり,ファームが主戦場に。そのファームでも打率.182と前年の打率.267から大きく成績を下げていた。

【記録】
 ・初出場・初先発・初打席:2019年6月24日オリックス戦(神宮)
 ・初安打・初打点:同上[竹安大知]
 ・初盗塁:2019年7月4日広島戦(マツダ)[一岡竜司-會澤翼]
 ・初本塁打:2021年7月13日巨人戦[エンジェル・サンチェス]
東京 ☀ | Comment(0) | SWALLOWS Memories | at 22:29 | 更新情報をチェックする

2022年10月01日

2185安打の内川引退 嶋も今季限り―プロ野球・ヤクルト & ヤクルト坂口、今季で引退 最後の近鉄戦士―プロ野球

チームの連覇を見届けてベテランたちが相次いで現役を退くことに。
 ヤクルトの内川聖一内野手(40)と嶋基宏捕手(37)が28日、東京都内で記者会見し、今季限りでの引退を発表した。
 ともに今季は1軍での出場試合が1桁にとどまった。内川は決断の理由について「第一線での野球は厳しいと感じた」と説明した。
 通算2185安打の内川は、大分工高からドラフト1位で2001年に横浜(現DeNA)に入団。08年には右打者最高打率の3割7分8厘で初の首位打者に輝き、ソフトバンクに移籍した11年には史上2人目のセ、パ両リーグでの首位打者となった。昨年からヤクルトでプレーし、「22年間、プロという世界で野球ができたことを幸せに思う」と笑顔で話した。[ 9/28(水) 16:50配信 時事通信 ]

7.内川聖一(2021-2022)
ソフトバンクを退団し,2020年12月8日ヤクルトと入団締結。背番号は同学年の田中浩康退団後空き番となっていた「7」。年俸は2億円減となる5000万円と大幅減となったが,横浜時代に指導を受けた杉村繁一軍打撃コーチがいること,自身の打撃の参考にもなる青木宣親,山田哲人がいることなどから,日本一チームから2年連続最下位チームへの移籍を選んだ。

2021年。新型コロナの影響で新外国人選手が来日すら出来ないという状況にあり,3月26日阪神との開幕戦に「5番一塁」で先発出場。しかし3月31日新型コロナ濃厚接触者判定を受け登録抹消。4月16日に復帰するも僅か3日後の19日に上半身のコンディション不良で登録抹消。一軍復帰に約一ヶ月要した。しかしその頃にはすでにホセ・オスナが一塁のレギュラーとして完全に定着しており,内川の出番は代打に限られていた。DSC07043.JPG
それでも7月9日広島戦(神宮)でヘロニモ・フランスアから移籍後初となるサヨナラタイムリーを放ち,内川のバットコントロール健在をアピール。
DSC08891.JPG
結果的にソフトバンク時代から内川の所属するチームは5年連続で日本一に輝き,「1人5連覇」を果たした。

2022年は西都キャンプからのスタート。イースタンで主に4番として.333近い高打率を残していたが,なかなか一軍からのお呼びはかからなかった。それでも7月12日。チームが新型コロナウイルス陽性判定を受け選手が大量に離脱したことで一軍昇格。7月14日中日戦(バンテリン)に「3番レフト」で今季初出場。公式戦ではソフトバンク時代の2015年10月5日楽天戦以来実に7年ぶりとなる外野手としてのスタメン出場だった。チームの救世主を期待されたが14打数3安打,打率.214。内川としては寂しい数字は否めなかった。7月20日巨人戦(神宮)のゲーム途中で退くと翌21日に登録抹消。「第一線での野球は厳しいと感じた」とNPBからの引退を決意した模様。

【記録】
 ・2000試合出場:2021年7月6日阪神戦(神宮)史上53人目

45.嶋基宏(2020-2022)
2019年オフに他球団で出場機会を求めるため楽天球団に自由契約を申し入れ,11月15日ヤクルトへの入団が発表された。背番号は「45」。

2020年。3月21日阪神との練習試合(神宮)で中田賢一から死球を受け,右手の親指付近を骨折。ただ新型コロナウイルス流行の影響で開幕が延期されており,開幕には間に合った。6月19日中日との開幕戦(神宮)でスタメンに名を連ねたのは嶋だった。この日の試合前の練習で中村にアクシデント発生。急遽スタメンマスクを託された。しかし7月11日巨人戦(ほっともっと)で守備中に負傷。試合後の診察で右足舟状骨骨折が判明し,翌12日に登録登録抹消。実戦復帰まで2ヵ月半を要し,一軍復帰は10月3日。怪我に泣き自己最少の20試合の出場に終わった。

DSC07039.JPG
2021年は西都キャンプからのスタート。オープン戦中盤で一軍合流したが,開幕一軍メンバーからは外れていた。ところが開幕5戦目の試合前に西田明央のコロナ陽性が判明し,ファームの試合に出場していた嶋が急遽一軍合流となった。試合出場は前年よりも更に少ない15試合にとどまったが,自ら第3捕手という役回りに専念し,ベンチではチームのムードの盛り上げ役に。チームは6年ぶりのリーグ優勝を果たしたが,チームメイトは誰もが影のMVPと嶋の貢献を称えていた。
日本シリーズでは中村悠平が全イニングマスクを被ってMVPを受賞。出番は無かったが嶋にとっては楽天時代以来8年ぶりとなる日本一を掴んだ。シリーズ終了後,球団は嶋の野球に取り組む姿勢や,ベンチでの振る舞いを高く評価し,選手兼任コーチとしての契約を打診。

2022年は捕手兼コーチ補佐として一軍に帯同。6月3日古賀優大に代わって一軍登録。6月24日巨人戦(神宮)でチームが大量リードした展開で初めてマスクを被ったが,26日に松本直樹と入れ替わる形で出場登録抹消。捕手にコロナ陽性者が出たことで7月12日に再び登録となったが,18日内山壮真の復帰をもって登録抹消。結局試合出場は1試合のみとなっていた。
「昨年の優勝した後、今シーズンは兼任。今年1年やったら、という覚悟はできていた。そういう思いで臨んだ1年だった。そのタイミングだなって思っていた。まだやりたいなって思う日もあれば、しんどいと思う日もあって、その繰り返しで。少しずつ夏過ぎから、今年のこのタイミングなのかなと強くなった。そういう思いを抱きながらプレーするのも失礼。引き際は大事だと考えていた」「僕はもともと捕手をやったことなくて、大学2年から始めた。そこが大きな分岐点。楽天に入団したことも、野村監督に捕手のイロハを教えてもらって、我慢してつかってもらった。そういう分岐点に、いい人とめぐりあえて、いい指導をしてもらって、それが今の僕につながっている。16年間を一言で振り返るのは難しいけど、すばらしい人に巡り会えたのが1つの要因かなと思う」と語り、「いろいろ言われすぎて、1つは言えないけど、どれだけミスをしても、我慢強く使ってもらった。いつも捕手を育てるのは、何年もかかるといって、僕を使い続けてくれた。それに応えたいと思ってやってきた。本当に感謝しかありません。ありがとうございましたという報告をしたい。これから僕も野村監督のような名将と言われる指導者になりたい。これからも頑張っていきたいということも言いたい」
「スワローズにきて…最初の…。仙台を離れて、家族を残して、妻には非常につらい思いを…大変な思いをさせてしまったので、子どもたちの成長も近くで見届けることもできなかったので、これから少しは時間ができると思うので、子どもたちの成長をしっかりと見届けていきたい。16年間いい思いもしんどいときもありましたけど、それを支えてくれた方に少しずつ恩返しができるように、できることをやっていきたい」

シーズン序盤から内山壮らに積極的に助言を送る姿が見られたことはもちろん,松元作戦コーチが濃厚接触者で不在の期間は,攻撃時津監督の横に嶋の姿があり,コーチとしての信頼は相当厚いものになっていることを感じさせている。野村監督のような名将へ。まさにその一歩を踏み出した。

 ヤクルトは29日、坂口智隆外野手(38)が今季限りで現役を引退すると発表した。
 30日に記者会見する。オリックスとの合併に伴って2004年に消滅した近鉄でプレーした、ただ一人の現役選手。
 兵庫・神戸国際大付高から2003年にドラフト1巡目で近鉄入団。オリックス時代の11年には175安打をマークして最多安打のタイトルを獲得した。16年にヤクルト移籍。今季は23試合の出場にとどまっていた。
 通算成績は1544試合出場で1525安打、打率2割7分8厘、38本塁打、418打点。[ 9/29(木) 16:30配信 時事通信 ]

42.坂口智隆(2016-2022)
オリックスから減額制限を超える提示を受けて自由契約となっていた坂口の獲得合意が発表されたのは2015年11月13日。背番号は「42」。

P1030726.JPG
P1060571.JPG
移籍初年度の2016年。主に12番打者としてチームトップの141試合に出場。オリックス時代の2011年以来5年ぶりに規定打席へ到達し打率.295。リーグ7位の出塁率.375。6月2日日本ハム戦(札幌ドーム)で通算1000試合出場,6月8日楽天戦(Koboスタ宮城)で通算1000安打を相次いで達成。新天地で見事なまでに復活を果たしたと同時にヤクルトには人気実力共に欠かせない戦力となった。

DSC02943.JPG
2017年。96敗を喫したチームにあって,136試合に出場。打率.290,4本塁打,出塁率.364とチームを牽引。オフにはオリックス時代の2012年以来5年ぶりに1億円プレイヤーに返り咲いた。

坂口にとって転機となった2018年。
DSC01847.JPG
DSC02174.JPG
DSC02427.JPG
メジャーで活躍した青木宣親が7年ぶりにチームへ復帰。レフトにはウラディミール・バレンティン,ライトには高井雄平がおり,坂口は春季浦添キャンプから一塁の守備練習を始め,3月30日DeNAとの開幕戦(横浜)で「6番一塁手」としてスタメンに名を連ねた。夏以降は1番に定着。2番青木とのコンビで安打を量産。139試合に出場し,オリックス時代の2010年以来8年ぶりとなる打率.317。出塁率は.406。チームを前年最下位から2位に文字通り牽引し,新たに3年契約を結んだ。

開幕から悪夢が襲った2019年。
DSC00849.JPG
DSC00956.JPG
DSC01347.JPG
DSC01351.JPG
開幕3戦目の3月31日阪神戦(京セラドーム)。8回裏の第4打席で島本浩也から左手に死球を受けて交代。左手親指の骨折が判明し出場選手登録抹消。5月17日に一軍復帰するも,死球の影響で調子が上がらず6月9日に再び登録抹消。結局試合出場は22試合に留まり,打率.125,2打点という成績に終わってしまう。

それでも不屈の魂で不死鳥のように蘇った2020年。全120試合中114試合に出場し,2年ぶりに規定打席に到達。本塁打は自己最多の9本。10月19日阪神戦(甲子園)では史上129人目となる通算1500安打を達成。
DSC06575.JPG

前年オフに近藤一樹が戦力外通告を受けたことで,坂口がNPB最後の近鉄戦士となった2021年。再び阪神との開幕3戦目で悪夢に襲われてしまう。
DSC04679.JPGには、開幕から先1番ライトで開幕スタメンに名を連ねていたが,2試合ノーヒットで6番に降格した3月28日阪神戦(神宮)。4回裏の第2打席だった。ジョー・ガンケルの投じた3球目。自打球が右膝付近に当たり,グランドに両手をつくようにして倒れ込んだ。苦痛の表情で打席に立ちファールで粘るも最後は三振。しかし次の守備に就くことは出来ず離脱を余儀なくされた。オリンピック中断期間中のエキシビションマッチで打率.438と結果を残し,リーグ戦再開となる8月14日から一軍復帰。公式戦の出場は25試合にとどまったが,坂口自身プロ入り19年目にして初めて所属チームの優勝を経験した。
古巣・オリックスが相手となった日本シリーズでは,第2戦で「9番ライト」で初出場。計4試合に出場し,日本一の瞬間はかつての準本拠地でもあるほっともっとフィールド神戸のレフトのポジションで迎えた。

2022年。春季キャンプから二軍で調整していたが,6月9日オリックス戦(京セラドーム)で初めて一軍昇格。6番レフトでスタメン出場し早速ヒットを放つと,スタメンあるいは代打で打率.300をキープ。坂口健在を見せていたが,オールスター後はヒットが出ず8月8日に登録抹消。
DSC05314.JPG
DSC05306.JPG
DSC05444.JPG
それでもファームで鋭い振りを見せつけており,終盤の精神的支柱としての再登録を願っていたが・・「寂しい思いもありますけど、自分で決断したことなので、最後まで野球をやり切って次のステージに向かいたいという気持ちです」と現役引退を決断したぐっち。
DSC07159.JPG
「ここ数年は覚悟しながら、まだ復活できると思ってやってきた。2軍暮らしが長くて若い子たちと一緒にやる中で、見られていることで体が動いた。一日一日、野球をうまくなろうと思えた。このチームで終われることが、まだ動けているうちに後輩たちに送ってもらえることが、自分の野球人生の幸せなのかなと。それが一番大きな決め手だった」
「ここ何年かは怪我もありましたし、成績も振るわない時があって、覚悟しながらの一年でした。体はまだ動きますし、「まだ、ある程度はやれるんじゃないか?」と思い始めた時に、自分は試合に出たい、レギュラーを取りたいという思いで、プロで20年間やってきたので、野球に対して、そういう気持ちで向き合ってしまっているのは違うんじゃないかと思い、決断しました。」
「始まりを作ってくれた球団。近鉄バファローズが無ければプロ野球選手になれていない。感謝して、1年でも(長く)名前が表に出るように頑張らないといけないと思ってやってきた」


そもそも入団の経緯も,2015年ドラフトで高山俊をあのまま引いていたら同じ外野手である坂口の獲得は無かったはず。そして今だから言えるけど最初はオリックス時代の風貌からチャラい印象をもっていた。でも全然そんなことなかった。優勝した翌年に加入した坂口。しかし前年打点王・畠山和洋が,前年首位打者・川端慎吾が,優勝を決めるサヨナラヒットを放った雄平が,さらに大看板の山田哲人までもが怪我で戦線離脱。一気に最下位に沈んだチームで「『東京』って名乗れるほどの花形はいない。オレらは『下町スワローズ』だ」とチームを鼓舞してくれたのが移籍1年目の坂口だった。そこから野球に取り組む姿勢,そしてその風貌美貌スタイル。すべてに虜になっていった。

サンスポの記事の一文
「19年は左手に死球を受けて骨折。拳を握るたび、グラブをはめるたびに激痛が走った。7月7日の誕生日で38歳となった。勤続疲労で全身が痛み、毎試合前と就寝前に痛み止めは欠かせない。「『治ってくれ』と思いながら飲んでいる。おまじないみたいなもの」。献身的に支えてくれるトレーナーや治療院の先生のおかげでグラウンドに立ち続けた。」
この文字を見て涙が出てきた。どれだけの痛みに耐えてここまでやってくれていたのか。そんなの全然見せずに気丈に振る舞うぐっちスタイル。不屈の魂で再び挑んだヤクルトに刻んでくれた歴史。多くのものを魅せてくれた坂口智隆。ありがとうございました。

【記録】
 ・1000試合出場:2016年6月2日日本ハム戦(札幌ドーム)史上477人目
 ・1000本安打:2016年6月8日楽天戦(Koboスタジアム宮城)史上283人目
 ・1500本安打:2020年10月19日阪神戦(甲子園)史上129人目
 ・1500試合出場:2021年8月15日DeNA戦(ハードオフ新潟)史上197人目
DSC09157.JPG
東京 ☀ | Comment(0) | SWALLOWS Memories | at 00:00 | 更新情報をチェックする

2022年07月29日

坂本と山本貴でトレード ヤクルトとロッテで左腕同士―プロ野球 & 赤羽と支配下契約 プロ野球・ヤクルト

 ヤクルトの坂本光士郎投手(27)とロッテの山本大貴投手(26)の交換トレードが成立し、29日に両球団から発表された。
 両投手ともに左腕。坂本は新日鉄住金広畑から2019年にドラフト5位でヤクルト入団。昨季は36試合に投げるなど通算63試合に登板して1勝3敗、防御率5.77。山本貴は三菱自動車岡崎からドラフト3位で18年にロッテ入り。通算13試合に登板し、0勝1敗、防御率3.24。[ 7/29(金)11:56配信 時事通信]

26.坂本光士郎(2019-2022途)
2018年ドラフト5位指名。背番号は同じ左腕久古健太郎の番号を引き継ぐ形で「26」に。
2019年4月24日巨人戦(神宮)でプロ初登板。8月25日阪神戦(神宮)で初ホールドをマーク。9試合登板で勝敗無しの3ホールド。防御率5.82。
2020年は7月28日阪神戦(神宮)の1試合のみ登板に終わり防御率12.00。通称イノーアの乱を受けてのマウンドで気の毒な面もあった。
DSC07033.JPG
自身初の開幕一軍入りを果たした2021年。4月24日中日戦(神宮)でプロ初勝利。貴重な左の中継ぎとしてブルペンを支えてきた。だが終盤調子を落とし,9月12日に登録抹消。シーズン当初から先発ローテーションの一角を担っていた田口麗斗にその座を譲ることになった。それでも36試合に登板し1勝2敗7ホールド。防御率4.05の成績でチームの6年ぶりリーグ優勝に大きく貢献した。
2022年も開幕は一軍だったが,3月29日巨人戦(神宮)で敗戦投手となり二軍落ち。以後登録と抹消を繰り返すような形となり,6月25日巨人戦(神宮)では2回8失点と打ち込まれるなど7試合登板で0勝1敗防御率9.28。チームのコロナ渦でも白羽の矢がたったが,この度同じ左腕同士のトレードが成立した。

【記録】
 ・初登板:2019年4月24日巨人戦(神宮)
 ・初奪三振:2019年5月10日巨人戦(東京ドーム)[丸]
 ・初ホールド:2019年8月25日阪神戦(神宮)
 ・初勝利:2021年4月24日中日戦(神宮)
 ・初打席:2022年7月23日広島戦(神宮)
DSC06214.JPG

43.山本大貴(2022途-)
北海道出身。北星学園大付高校,社会人三菱自動車岡崎を経て2017年ドラフト3位で千葉ロッテに入団。1年目に1試合,2020年には12試合に登板したものの,昨季・今季と登板無し。
独特なフォームからのカットボールなどを武器にする左腕。イースタンでも対戦があるだろうから,尾花ファーム投手チーフコーチ始め,環境変えれば戦力になると判断されての合意か。
山本姓も4年ぶりに復活。樹(1993-2005)・斉(2008-2014)・哲哉(2010-2018)そして大貴(2022-)と息の長い投手の系譜も持ち合わせる。

背番号「43」
 ○阿井英二郎(1983-1990)→21西岡剛(1991-1992)→○鈴木浩文(1993-1994)→○宮出隆自(1996-2009)→△一場靖弘(2009-2012)→○江村将也(2013-2015)→15村中恭兵(2016-2019)→70スアレス(2020-2021)→△山本大貴(2022-)
江村広報,村中アカデミーコーチとつけてきた左腕の背番が3年ぶりに復活!

赤羽と支配下契約 プロ野球・ヤクルト
 ヤクルトは29日、育成選手の赤羽由紘内野手(22)と支配下選手契約を結んだと発表した。
 背番号は71。赤羽は23日のフレッシュオールスターゲームでサヨナラ3ランを放ち、最優秀選手(MVP)に選ばれた。 
[7/29(金) 16:51配信 時事通信]

2004年青木宣親,2006年飯原誉士,2009年荒木貴裕,2021年内山壮真とフレッシュオールスターMVPの系譜に乗った赤羽が支配下登録。
DSC02585.JPG
2年目の今季は春季キャンプから一軍帯同と首脳陣の期待も高かった。コロナ渦で武岡の代役として選出されてサヨナラ3ランを放っての受賞なのだから,長岡同様実力だけでない運も備えているように感じる。

背番号「71」
 17松岡弘(1986-1989)→○有隅昭二(1990-1991)→○鮫島秀旗(1992-1993)→■柴田猛(1994-1995)→33中西親志(1996-2013)→○デニング(2015)→111中島彰吾(2016-2017)→▲河田雄祐(2018-2019)→○ケリン(2021)→023赤羽由紘(2022-)
ケリンなんていなかったに等しいから,選手では5年ぶり。野手となるとデニング以来7年ぶり。

これで支配下上限の70名に。支配下登録が叶わなかった丸山翔,下,内山太,松井聖,岩田。コロナ渦でお呼びがかからなかった中山,吉田大成。左腕で環境を変えるの判断に至らなかった寺島。このあたりは勝負の残り2ヶ月となりそう。キブレハンは・・お察しくださいか。
東京 ☀ | Comment(0) | SWALLOWS Memories | at 22:19 | 更新情報をチェックする

2021年11月04日

ヤクルト大村孟と来季契約結ばず 16年育成ドラフト1位

ヤクルトは4日、大村孟捕手(29)と来季の契約を結ばないことを発表した。
大村はBCリーグ石川から16年育成ドラフト1位で入団。18年3月に支配下登録。通算14試合に出場し、打率1割5分4厘、1本塁打、1打点。ここ2年は1軍がなかった。[ 11/4(木) 17:52配信 日刊スポーツ ]

59.大村猛(2018-2021)←120.(2017-2018)

2016年10月20日独立リーグ福井より育成選手ドラフト1位指名入団。背番号は「120」。
170114.JPG"

捕手登録ながら,ファームでは主に一塁手や指名打者で出場。2017年は打率.268を記録するも支配下登録はならなかった。

2018年。春季キャンプ期間中に松本直樹の離脱に伴い一軍合流。オープン戦で結果を残し,3月20日に支配下登録。背番号は「59」に変更された。
4月4日川端慎吾の脳震盪特例措置によって一軍初登録。4月5日広島戦(神宮)でプロ初出場。4月12日中日戦(ナゴヤドーム)でプロ初安打。
DSC03646.JPG

2019年は6月29日に一軍昇格すると,7月2日広島戦(マツダ)でプロ初本塁打・初打点をマークしたが,7月8日に登録抹消された。2020年,2021年は一軍出場無し。
フェニックスリーグ終了後に行われる秋季練習のメンバーにも名前を連ねていたものの,戦力外通告となった。ただヤクルト球団ならこの時期の通告であればなんらかのポジションを用意してのものなのかなぁと。

【記録】
 ・初出場・初打席:2018年4月5日広島戦(神宮)館山昌平の代打出場
 ・初安打:2018年4月12日中日戦(ナゴヤドーム)[佐藤優]
 ・初本塁打・初打点:2019年7月2日広島戦(マツダスタジアム)[島内颯太郎]

引退・退団・移籍選手について,過去に遡って新たにSWALLOWS Memoriesというカテゴリーを設けました。これに伴って,10月6日の記事もこちらに移動させていただきます。
歳内ら戦力外 プロ野球・ヤクルト
 ヤクルトは6日、歳内宏明(28)、中尾輝(27)、蔵本治孝(26)の3投手と来季の契約を結ばないと発表した。[ 10/6(水) 14:54配信 時事通信 ]
 

62.歳内宏明(2021)←91.(2020途)
2020年9月7日四国アイランドリーグ・香川からNPB復帰。背番号は「91」。9月16日DeNA戦(神宮)で先発登板。これが歳内にとって実に4年ぶりの一軍登板。9月24日中日戦(神宮)で復帰後初黒星。3試合目の先発となった10月1日DeNA戦(横浜)。7回無失点の好投で,阪神時代の2015年9月29日DeNA戦(甲子園)以来,先発としては自身初の勝利投手に。途中加入にも関わらず7試合に先発とローテーションの一角を担い,背番号も田川賢吾の退団で空いた「62」に変更された。

2021年春季浦添キャンプのメンバーに名を連ねていたものの,春季教育リーグからファーム落ち。開幕直後4月2日に山野太一に代わり一軍登録されたが,登板機会無く翌々日4日に登録抹消。4月23日東北楽天戦(森林どり泉)を最後に約3ヶ月登板無く,8月13日ロッテ戦(戸田)が最後の登板となっていた。今季のイースタンでの登板は僅か6試合。1勝2敗 防御率6.06だった。

記録
 ・初先発勝利:2020年10月1日DeNA戦(横浜)
 ・初安打:2020年10月30日巨人戦(東京ドーム)[今村信貴]

63.中尾輝[2021]←13.(2017-2020)
名古屋経済大から2016年ドラフト4位指名。背番号はルイス・ペレスが背負っていた「13」に。

即戦力ルーキーとして2017年浦添キャンプメンバーにも抜擢された。4月29日に一軍初昇格も登板機会無いまま5月2日に登録抹消。チームが7連敗中の6月8日ソフトバンク戦でプロ初登板初先発に大抜てきされた。しかし3回7失点のほろ苦デビューとなり翌日抹消。シーズン終盤に再昇格したが,登板はこの先発を含め2試合の登板に終わった。それでもオフに開催されたウインターベースボールリーグに派遣され何かを掴んだか2年目に一気に飛躍した。

自身初の開幕一軍入りを果たした2018年。4月8日巨人戦(神宮)で,同点の5回から登板し3回を無失点。7回裏にチームが勝ち越しプロ初勝利。
DSC02322.JPG

その後も好投を続け,気がつけば近藤一樹とともに守護神石山泰稚に繋ぐセットアッパーに。交流戦では18試合中9試合に登板し2勝1敗4ホールドと大車輪の活躍でチームの勝率1位に貢献。最終的にチーム3位の54試合に登板し7勝3敗12ホールド。前年96敗を喫したチームのリーグ2位躍進にも大きく貢献した。しかし3連投が5度など当時の田畑一也コーチによる酷使は明らかだった。

2019年浦添春季キャンプ中に左肩痛を訴え離脱。4月19日に一軍昇格したが前年のようなキレはなく,登板は12試合。防御率も8.36と振るわなかった。

2020年は登板5試合に終わり,オフには背番号が「63」に降格。背番号「13」はホセ・オスナに渡った。2021年はプロ入り5年目にして初めて一軍登板なかった。

投手記録
 ・初登板・初先発登板:2017年6月8日ソフトバンク戦(ヤフオクドーム)
 ・初奪三振:同上[上林誠知]
 ・初勝利:2018年4月8日巨人戦(神宮)
 ・初ホールド:2018年4月29日巨人戦(東京ドーム)

99.蔵本治孝(2020-2021)←22.(2018-2019)
岡山商科大学から2017年ドラフト3位指名。背番号は竹下真吾の退団で空いた「22」。愛称は”くらもん”。
2018年は一軍登板無し。
2019年6月19日に初めて一軍登録され,6月21日ロッテ戦(神宮)でプロ初登板。8試合に登板したが勝敗なし。この年のオフに高津臣吾一軍監督就任に伴い現役時代と同じ背番号「22」を希望したことで,蔵本は高津二軍監督と交換される形で「99」に。
2020年一軍登板無し。
2021年7月31日エキシビジョンマッチソフトバンク戦(PayPay)で2イニングを投げ無失点と後半の秘密兵器を期待されたが,結局2年続けて一軍登板無く終わった。

記録
 ・初登板:2019年6月21日ロッテ戦(神宮)
 ・初奪三振:同上[二木康太]続きを読む
東京 ☁ | Comment(0) | SWALLOWS Memories | at 21:02 | 更新情報をチェックする

2021年10月02日

ヤクルトの雄平が引退 プロ野球

10月2日の夜にひっそりと書きました。
 ヤクルトは29日、雄平外野手(37)=本名高井雄平=が今季限りで現役引退すると発表した。
 10月5日に会見を開く。
 2003年に宮城・東北高からドラフト1巡目で投手として入団。144試合に登板し、18勝19敗1セーブ、防御率4.96の成績を残した。10年シーズンから野手に転向し、14年には打率3割1分6厘、23本塁打、90打点でベストナインに選出。今季は1軍出場がなかった。
 雄平は球団を通じ、「高校を卒業して19年間という長い間お世話になり、プロ野球選手として素晴らしい経験をさせていただいた。15年、サヨナラヒットで優勝を決めたことが一番印象に残っている」とコメントした。[ 9/29(水) 12:00配信 時事通信 ]

41.雄平(2007-2021)←22(2006)←16.高井(2003-2005)
2002年ドラフト1巡目で大阪近鉄バファローズとの抽選の末若松勉監督がクジを引き当て入団。前年まで石井一久がつけていた背番号「16」が与えられたことからも左のエースとしての将来が嘱望された。

2003年。高卒ルーキーながら4月22日巨人戦(東京ドーム)でプロ初登板を果たし,6月11日巨人戦(東京ドーム)でプロ初勝利。6月28日広島戦(広島)戦で5回を投げ10奪三振を奪い先発としても初勝利。計27試合に登板し,5勝6敗防御率5.03と,高卒ルーキーとしては十分の成績を残した。その一方で102回を投げ,63四死球。リーグ最多の12暴投と克服すべき課題も現れていた。

2年目の2004年の一軍登板数は9試合に留まったが,後半戦だけで先発で4勝と3年目の飛躍を感じさせた。

41_05.JPG
自身初の開幕一軍入りを果たした2005年。開幕3戦目の先発を託された4月3日阪神戦(大阪ドーム)で能見篤史からセンターバッククリーンへプロ初本塁打を放つも,自身が打ち込まれ敗戦投手に。6月に二軍降格。コントロールを意識するあまり球威がなくなる。投手として伸び悩み始めた高井。

古田敦也選手兼任監督の誕生に伴い,MLBロサンゼルス・ドジャースの石井一久もヤクルトに復帰することが決まり,石井一が愛着のある背番号「16」を希望したことで,「22」へと変更になった2006年。
4月1日阪神戦(神宮)でプロ初ホールドをマークするなど中継ぎとして36試合に登板。2勝1敗5ホールドという成績を残したが,防御率は6.51にまで悪化した。6月17日ロッテ戦(神宮)では福浦和也に頭部死球を与え,わずか1球で危険球退場処分も受けた。
そしてある意味投手高井の分岐点となった10月12日横浜戦(神宮)。1回表先頭打者石井琢朗に四球を与え,3番内川聖一の打席で連続暴投。石井は三塁へ進み,さらにキャッチャーのはるか上を通過し,バックネットに突き刺ささるような暴投で石井を本塁まで生還させてしまった。1イニング3暴投というNPB一軍公式戦最多タイ記録を作ってしまう。

2007年もまた背番号変更。前年からヤクルトに復帰していた高津臣吾が「11」から「22」に変更されたことに伴い高井はまたも弾きだされるような形で今度は「41」へ。
41-07.JPG
制球力を上げる目的で,投球フォームをワインドアップからセットポジションに変更したのが功を奏したか。ブルペン唯一の左腕としてチームおよび自身最多の52試合に登板。7月16日中日戦(ナゴヤドーム)ではプロ初セーブを挙げるなど,3勝12ホールド。防御率も5.19と改善の兆しを見せていた。

高田繁監督が就任した2008年。監督方針で春季キャンプから先発要員として再起を図ったが,あまりに制球に意識を奪われるあまり,高井にとって最大の武器であったストレートの球速はついには140km/hにも届かなくなり,結局この年の登板は1試合(2/3回)のみ。
 DSC01912.JPG
41-08.JPG
オフにはハワイ・ウィンターリーグへと派遣されていた。余談となるが,この年のオフにスワローズは横浜から相川亮二を獲得した際,当時横浜を率いていた大矢明彦監督が高井を人的補償で獲得したい意向があったそうだが,リストには載っていなかった(=ヤクルトからプロテクトされていた)と何年か経ったプロ野球ニュースで語っていた。

球団からの期待とは裏腹に,翌2009年も登板1試合に終わり,とうとう当時の首脳陣から投手失格の烙印を押されてしまう―。そして高井は悩んだ末に野手転向を決断した。

野手転向一年目の2010年。プロ入り8年目にして初めて一軍出場無しに終わったものの,イースタン公式戦では規定打席に到達。打率.283,4本塁打,35打点。
41-10.JPGこの年のファン感では一緒にキャッチボールをさせていただいた思い出

投手としての自分と決別し,野手として生まれ変わるため登録名を「雄平」に変更した2011年。
41-11.JPG
7月11日に野手として初めての出場選手登録されたが,出場機会無いまま7月30日に抹消。イースタンでは96試合に出場し,打率.330で首位打者に輝いていた。

そして2012年。ついに野手として初めて開幕一軍メンバー入り。開幕2戦目の3月31日巨人戦(東京ドーム)で代打で出場し,澤村拓一から野手転向後初安打を放つ。
41-12.JPG
5月21日に出場選手登録抹消され約3ヶ月はファーム暮らしだったが,上田剛史,松井淳の負傷離脱で9月1日に一軍再昇格すると,その後も比屋根渉,ラスティングス・ミレッジと外野手の故障者が相次ぎ,気がつけば「1番・中堅手」の座を完全に手中におさめ,チームのクライマックスシリーズ出場にも貢献した。

順風満帆に見えた野手転向だったが,突然の悲劇に襲われた2013年。
3月30日阪神戦(神宮)。藤浪晋太郎から自身としては8年ぶり,野手転向としては初本塁打を放つなど完全に外野のレギュラーとして定着しかけていた。ところが・・・4月17日中日戦(神宮)。守備でジャンピングキャッチを試みた着地の際に右膝を強打。もはや自力で起き上がることすら出来なかった。右膝前十字靱帯断裂の大怪我。5月10日に靱帯再建手術を受け,残りのシーズンはリハビリに費やすことに。

2014年春季キャンプ終了後に一軍に合流。開幕当初は「2番センター」だったが,ほどなくウラディミール・バレンティンのあとを打つ5番に定着。
5月28日日本ハム戦(神宮)であの大谷翔平から本塁打を放つなど,この月は打率.364,8本塁打,19打点,長打率.646という成績で月間MVPを受賞。投手として公式戦登板のある選手が月間MVPを受賞するのは1993年9月仁村徹(中日)以来史上2人目の快挙。7月には故障で離脱したバレンティンに代わって4番も任された。オールスターゲームにも初選出されるなど141試合に出場し,打率.316,23本塁打。セ・リーグのベストナインにも輝いた。投手として通算10勝以上した選手がシーズン20本塁打をクリアするのも史上4人目の快挙。野手転向は大正解だった。

開幕4番を任されながら,打率(.316→.270),本塁打(23→8),打点(90→60)いずれも前年を大きく下回ったにも関わらず,最もインパクトのある2015年。
10月2日阪神戦(神宮)。1−1と同点で迎えた11回裏2死一三塁。能見篤史から放った打球は,チームが14年ぶり7度目のセ・リーグ優勝を決めサヨナラタイムリー。雄平にとってもそしてスワローズにとってもまさに語り草となる一打だった。
41-15.JPG

2016年。7月27日から9月8日まで左側腹部筋挫傷で離脱期間があり,規定打席には到達しなかったが,打率.296,7本塁打,55打点。この年からシーズンオフに燕市を訪問してくれることが恒例に。
41-16.JPG

41-171.JPG
2017年。開幕から4番を任され打率も.300代と好調だったが,6月28日巨人戦(福島あづま)でファウルを放った際に右手有鈎骨を骨折。一軍復帰はシーズン最終戦ということで,出場は71試合。雄平をシーズンのおよそ半分欠いたチームは96敗の最下位に沈んだ。
41-17.JPG


MLBから青木宣親が電撃復帰した2018年。センターに青木,レフトにはバレンティン。ということで残された外野の枠はライトのみ。そのライトを前年のセンターレギュラーの坂口智隆と争うことになった雄平だったが,結果的には坂口が一塁にコンバートされ,雄平は5番ライトのポジションを守り通した。124試合に出場し,自身3年ぶりに規定打席にも到達。さらに4年ぶりの2桁本塁打(11本)と自己キャリアハイとなる打率.318をマーク。得点圏打率はリーグ2位の.356と勝負強さも光った。
41-18.JPG
シーズン終了後の契約更改では,入団16年目(打者転向9年目)にしてとうとう1億円プレーヤーに。投手として入団しその後野手に転向した選手では,石井琢朗・福浦和也・糸井嘉男に次いで史上4人目の偉業を成し遂げた。

2019年も故障無く131試合に出場。打率.273,12本塁打,56打点。年俸も現状維持で更改した。しかし・・
41-19.JPG

コロナ禍に見舞われた2020年。6番ライトで開幕スタメンに名を連ねたものの,打率2割台前半と低迷。7月27日に再調整で出場選手登録を抹消される。8月24日に再昇格したものの調子は上がらず9月14日に抹消。43試合の出場に留まり,打率.223。野手転向後初めて本塁打0に終わった。

2021年。春季キャンプはコンディション不良で西都スタート。4月20日DeNA戦(戸田)2番指名打者で今季初出場したものの,打率はファームで1割台と低迷を極め,9月29日。今シーズン限りでの現役引退を発表した。

表彰
 ・ベストナイン(2014年)
 ・月間MVP(2014年5月)
 ・スカパー! ドラマティック・サヨナラ賞年間大賞(2015年)
投手記録
 ・初登板:2003年4月22日巨人戦(東京ドーム)
 ・初奪三振:同上[斉藤宜之]
 ・初先発:2003年5月1日横浜戦(神宮)
 ・初勝利:2003年6月11日巨人戦(東京ドーム)
 ・初先発勝利:2003年6月28日広島戦(広島)
 ・初完投:2005年5月27日日本ハム戦(札幌ドーム)
 ・初ホールド:2006年4月1日阪神戦(神宮)
 ・初セーブ:2007年7月16日中日戦(ナゴヤドーム)
打撃記録
 ・初打席:2003年4月24日巨人戦(東京ドーム)
 ・初安打・初打点:2003年5月7日巨人戦(神宮)[高橋尚成]
 ・初本塁打:2005年4月3日阪神戦(大阪ドーム)[能見篤史]
 ・初盗塁:2012年5月16日ソフトバンク戦(神宮)[山田大樹ー山崎勝己]
 ・1試合4二塁打:2017年5月7日横浜戦(横浜) ※史上12人目
その他
 ・オールスターゲーム出場(2014年-2015年)

そして雄平といえば出囃子にMr.Children。神宮球場に流れるミスチルの音楽に乗せて打席に入る雄平。これもまた雄平の醍醐味でした。
終わりなき旅

息を切らしてさ 駆け抜けた道を 振り返りはしないのさ
ただ未来だけを見据えながら 放つ願い


いいことばかりでは無いさ でも次の扉をノックしたい
もっと大きなはずの自分を探す 終わりなき旅


高ければ高い壁の方が 登った時気持ちいいもんな
まだ限界だなんて認めちゃいないさ


No.1投手として駆け抜けてきた高校時代。悩んだ末に決断した野手転向。常々にキャリアハイを目指すと語り「もっと大きなはずの自分を探」し続けてきた雄平の”終わりなき旅”

足音〜Be strong


”優勝”というファンが「夢見てた未来」を運んでくれた雄平。

I’LL BE


世界に一枚しかない雄平さんのサイン入りシングルCD。一生の宝物です。
41-16I.JPG

ありがとう雄平さん。指導者としての新たな旅がこれから始まりますから。
東京 ☔ | Comment(0) | SWALLOWS Memories | at 23:59 | 更新情報をチェックする

2020年11月11日

上田ら戦力外 プロ野球・ヤクルト

 ヤクルトは11日、上田剛史(32)、田代将太郎(30)両外野手、藤井亮太内野手(32)の3人と来季の契約を結ばないと発表した。[ 11/11(水) 20:04配信 時事通信 ]

全日程終了翌日の非情通告はいずれも昨日神宮のベンチに入っていた選手ばかり。日程の関係で公式戦とフェニックスリーズが重なり,若手の出場機会との兼ね合いもありそう映ってしまうのは致し方ないのでしょうけど。。

0.藤井亮太(2019-2020)←51.(2014-2018)
シティライト岡山から2013年ドラフト6位指名。背番号は「51」。
2014年5月26日に初の一軍登録。5月28日北海道日本ハム戦(神宮)でプロ初出場。出番としては代打が主だったが,7打席でヒットは打てなかった。

2015年は第3捕手的ポジションながら自身初の開幕一軍入り。4月2日に抹消されるが,5月24日に再登録。その日の広島戦(マツダ)で2番センターで自身初のスタメン起用され,プロ初安打,初打点を記録した。しかしこの年の出場試合は13試合。2016年も12試合出場と,そこまで目立った成績は収められなかった。

DSC00032.JPG
転機となった2017年。正三塁手の川端慎吾の故障によって出場機会が激増する。5月11日広島戦(神宮)の5回表0死一塁。福井優也の犠打を,三塁から猛チャージしてダイビングキャッチし,飛び出した會澤翼をも刺し併殺を完成させたプレーは”忍者”といわしめた。

さらなる飛躍が期待された2018年だったが,監督交代もあってか出場試合数は前年の97試合38試合に激減。

背番号が「0」へと変更された2019年は自己ワーストの6試合の出場に終わり,言い方は悪いがファームのユーティリティープレーヤーとして,内外野あらゆるポジションをこなさせられている感は否めなかった。
DSC09936.JPG

2020年も開幕からファーム暮らしとなっていたが,9月15日に一軍昇格。21日抹消。11月1日に再昇格し自身2年ぶりにスタメン起用されるなど出場機会を与えられたが,戦力外通告を受けることに。「年も年なので。そろそろかなと思っていたけど、もうちょっとやりたかったっていうのはあります」現役続行を希望しているという。

記録
 ・初出場・初打席:2014年5月28日日本ハム戦(神宮)
 ・初先発:2015年5月24日広島戦(マツダ)
 ・初安打・初打点:同上[福井優也]
 ・初本塁打:2017年6月7日ソフトバンク戦(ヤフオクドーム)[石川柊太]
 ・初盗塁:2017年6月11日ロッテ戦(QVCマリン)[佐々木千隼-田村龍弘]

50.上田剛史(2007-2020)
岡山・関西高校から2006年高校生ドラフト3位指名。背番号「50」。高校3年生の春の選抜大会ではあの斎藤佑樹から本塁打を放ったことで名を馳せていた。

2007年ファームでは78試合に出場。打率.223,9盗塁。
2008年にはファームで内野守備(サード)にも挑戦。同年のフレッシュオールスターゲームにも選出された。90試合,打率.294,16盗塁。
2009年7月21日にプロ初の一軍登録。7月22日阪神戦(甲子園)ジェイミー・デントナの代走でプロ初出場。8月22日巨人戦(神宮)佐藤由規の代打でプロ初打席。ファームではリーグ2位となる26盗塁をマーク。

2010年4月29日阪神戦(神宮)でプロ初安打。5月1日横浜戦(神宮)でプロ初スタメン出場は1番サードだった。6月5日西武戦(神宮)でプロ初打点。

2011年はイースタンリーグトップの55盗塁。シーズン終盤離脱者が相次ぎ,クライマックスシリーズではスタメンを任され,この年をもってアメリカメジャーリーグに移籍した青木宣親の後継者筆頭と目されていた。
DSC06385.JPG

2012年自身初の開幕一軍と開幕スタメンを掴んだものの,2度の故障離脱もあってレギュラーの座を掴めず,一二軍を往来。
DSC05600.JPG

一軍に定着するようになったのは2013年から。先発投手の左右で比屋根渉と併用でスタメン機会も増え2013年112試合,2014年115試合,2015年82試合。代走や守備固めから試合に入り,試合を決める一打も放つ勝負強さも持ち合わせた。
DSC01330.JPG
DSC04189.JPG

2016年は右足小指剥離骨折で2ヶ月ほど戦列を離れたこともあり72試合の出場にとどまったが,2017年100試合,2018年102試合とポジションを確立。
2018年9月4日中日戦(神宮)。9−9で迎えた延長11回裏に又吉克樹から右中間へ自身初となるサヨナラ3ラン本塁打。ファンにとっては忘れられない試合のひとつである。
DSC05686.JPG
しかしそこから2019年59試合,2020年53試合と出場機会は半減。2019年は死球の影響,2020年はフェンスダイビングキャッチによる負傷と不慮の面もあった。まして前夜もレフトの守備でプロ野球ニュースの今日のファインプレーにも選ばれる好捕を魅せながらあまりに非情な通告。
「ちょっとまだ分からない」「まだ何も整理がついていなくて、頭の中の整理がついていないという感じです」と,生え抜き14年の選手に対し,スタッフや職員としての打診すらない突然の通告だったようだ。

見た目チャラそうだけれども,ここぞという場面のピンチバンターとしてキッチリ犠打を決めるなど影での努力は今の中堅どころの選手には感じられない面があるし,持ち前のキャラクターでファン感を盛り上げてくれた。

表彰
 ・スカパー! サヨナラ賞:2018年9月・10月
記録
 ・初出場:2009年7月22日阪神戦(甲子園)
 ・初打席:2009年8月22日巨人戦(神宮)
 ・初安打:2010年4月29日阪神戦(神宮)[久保田智之]
 ・初先発出場:2010年5月1日横浜戦(神宮)
 ・初打点:2010年6月5日埼玉西武戦(神宮)[許銘傑]
 ・初盗塁:2011年10月9日広島戦(神宮)[ブライアン・バリントン-倉義和]
 ・初本塁打:2013年7月13日広島戦(神宮)[大竹寛]

65.田代将太郎(2018-2020)
埼玉西武を自由契約となり,2017年合同トライアウトを経て入団。背番号「65」

2018年移籍1年目開幕一軍入り。主にウラディミール・バレンティンの守備固めと代走として,西武在籍6年間の通算試合数を超える73試合に出場。少ない打席機会の中でも,打率.323をマークするなどベンチに欠かせない存在に。

2019年も開幕一軍入りしたが,シーズン後半以降はファーム暮らしが多くなり,出場は51試合。
DSC00328.JPG
DSC01130.JPG

2020年は移籍後初となる開幕一軍漏れ。8月15日渡邉大樹の負傷があって一軍初昇格。31日に抹消されたが,今度は上田の負傷で9月17日に再昇格。スタメン起用も増え,移籍後最多となる53打席を与えられるも,打率.149と結果を残せず。
自身2度目の戦力外通告に,「いつか誰しもくると思っていたので。今後は未定です。年齢も年齢なので、野球から離れるという手も考えていますけど」と冷静に受け止めている様子がSNSから伝わってきた。

コーチ人事も明らかに。
斎藤、河田両コーチが退団 プロ野球・ヤクルト
 ヤクルトは11日、斎藤隆投手コーチ(50)、河田雄祐外野守備走塁コーチ(52)が契約満了のため退団すると発表した。また、球団幹部によると、横浜(現DeNA)監督や巨人投手コーチなどを歴任した尾花高夫氏(63)をコーチとして招聘(しょうへい)することを検討している。[ 11/11(水) 20:03配信 時事通信 ]

三顧の礼で外部招聘したお二方が責任を取る形で退任。引き抜きかはまだ明らかではないが,外部からも声が懸かる有能な人材が抜け,残るはそうでない人材というのは組織によくあるパターンなのか。斎藤コーチは配置転換の時点でなんらかの衝突があっただろうと想像してしまう。
ほかのコーチは配置転換があったが,2年続けて同職を担ったのは河田外野守備走塁コーチともう一人だけいる。それでも責任を痛感すらしないバッテリーコーチ。進退を伺うべきでは?それも2年連続最下位の部門の担当なのだから。コーチ人事は組閣され次第また改めて触れたいと思います。

あとは肝心の選手契約。マクガフスアレスとは残留交渉の様子。エスコバーは流動的。クック?知らん( *`ω´)
個人的にはFA3選手よりも,まずはこちらを最優先して欲しかった青木の交渉。記事によっては結んで「いた」という表現もあり,これには安堵。優先順位というものがある。青木は明らかな幹部候補生。向こう10年のスワローズを何らかの形で担っていく人財。この人に誠意を見せないとチームの未来ビジョンは壊滅すると思っていたので。
青木と新たに複数年契約 プロ野球・ヤクルト
 ヤクルトが青木宣親外野手(38)と新たに複数年契約を結ぶことが11日、分かった。青木は今季が3年契約の最終年。球団幹部は「青木という存在と米大リーグから帰ってきての言動、行動全ての評価」と話した。
 日米通算17年目の青木は今季、チーム最高の打率3割1分7厘、18本塁打、51打点で打線をけん引。主将としてもチームを支えた。[ 11/11(水) 19:37配信 時事通信 ]
東京 ☀ | Comment(0) | SWALLOWS Memories | at 22:37 | 更新情報をチェックする

2020年11月02日

近藤、山中ら7投手戦力外 プロ野球・ヤクルト & ヤクルト井野が現役引退 プロ野球

 ヤクルトは2日、近藤一樹(37)、山中浩史(35)、山田大樹(32)、平井諒(29)、風張蓮(27)、田川賢吾(26)、育成のジュリアス(23)の7投手と来季の契約を結ばないと発表した。
 近藤は今季限りでの引退が決まっている巨人の岩隈とともに、2004年に消滅した近鉄でプレーした最後の現役投手。球団幹部によると、現役続行を希望している。2日現在の通算成績は347試合登板で43勝57敗4セーブ、防御率4.50。[ 11/2(月) 17:28配信 時事通信 ]

例年より一ヶ月遅れでこの時期がやってきてしまいました。。

20.近藤一樹(2016途-2020)
2016年7月17日八木亮祐との交換トレードで移籍。背番号は八木が背負っていた「70」。8月5日阪神戦(神宮)で移籍後初登板。
P1050343.JPG
P1050357.JPG

移籍2年目から中継ぎとしてフル回転。54試合に登板し14ホールドを挙げた2017年。6月30日阪神戦(甲子園)では9回裏2死二三塁,カウント2-2から秋吉亮にアクシデントが発生し急遽緊急登板。1球で原口文仁を空振り三振に仕留め,これがプロ初セーブ。

2018年は守護神を予定していた新外国人のマット・カラシティーや秋吉の不振により,8回のセットアッパーに定着。前年96敗を喫したチームが一転2位躍進に大きく貢献する大車輪の活躍。2015年秋吉に並ぶ球団記録の74試合登板。球団記録を更新する35ホールド,42ホールドポイントで,プロ17年目にして自身初タイトルとなる「最優秀中継ぎ投手」を受賞。背番号も山本哲哉が背負ってきた「20」に変更された。

DSC01455.JPG
2019年は8月25日に登録抹消され9月18日に再登録と離脱期間もあったが, 59試合登板で22ホールドポイント。
DSC01898.JPG
DSC00428.JPG

2020年 の登板は20試合で0勝1敗2ホールド。9月22日に登録抹消となっていたが,“総合的な判断”ということで来季契約を結ばない旨が通告された。

愛称近ちゃん。近ちゃんと言えば印象的なルーティンが2つある。1つはマウンド上での丁寧な指さし確認。もう1つは3つ目のアウトを奪ってベンチに戻ると,くるりとグランドに向きを変え,ベンチに戻ってくる野手全員とグラブでハイタッチを交わす儀式。近ちゃんがリズムよくアウトを重ねるとどこか打線も活気づく場面が多かった。
そして今そしてこれからこの近ちゃんの儀式をまさに継承しようとしている投手がいる。清水昇。ヤクルトを離れることになるけれど,近ちゃんの投魂はきっと受け継がれていくはずだ。。

【記録】
 ・初セーブ:2017年6月30日阪神戦(甲子園)
 ・1球セーブ:同上※史上60人目
 ・1球セーブ1球奪三振:同上※史上初

34.山田大樹(2018-2020)
2017年11月11日にソフトバンクホークスから無償トレードという形で移籍。背番号はソフトバンク時代と同じ「34」。表記は同姓の山田哲人がいるため,「山田大」に。

2018年6月22日巨人戦(東京ドーム)で移籍後初登板初先発。しかし22/3回6失点で敗戦投手に。翌週29日阪神戦(神宮)も先発したが,3回KO。移籍一年目の登板はこの2試合のみ。

2019年は交流戦期間中の6月13日に一軍登録されると中継ぎで3試合の登板を経て,6月20日古巣のソフトバンク戦(神宮)から先発に回った。7月8日DeNA戦(神宮)で51/3回3失点で移籍後初勝利を挙げると,そこから8月1日DeNA戦(横浜)まで無傷の4連勝。シーズン後半最下位に沈むチームの中で先発ローテーションを守り,5勝を挙げた。

開幕が遅れた2020年は,6月に入って再開された練習試合で結果を残し,開幕ローテ入りが有力視されていた高橋奎二の調子が上がらないこともあり,開幕3戦目となる6月21日中日戦(神宮)の先発マウンドを託された。7回3失点とQSをクリアする投球も,打線が梅津の前に沈黙し敗戦投手に。翌週28日巨人戦(神宮)は12/3回5失点でKOされ7月1日に星知弥と入れ替わりで登録抹消。ファームではチームトップの631/3回を投げ2勝6敗,防御率4.55という成績も一軍からお呼びがかかることはなかった。

62.田川賢吾(2018-2020)←117.(2017-2018)←35.(2013-2016)
高知中央高から2012年ドラフト3位指名。担当スカウト岡林洋一。背番号は「35」。

高卒1年目となる2013年は,イースタン・リーグで3試合に登板。0勝1敗,防御率9.00の成績。2年目の2014年4月10日に腰椎椎間板ヘルニアの摘出手術を受け,一・二軍とも公式戦登板無し。

2015年イースタン3試合0勝1敗,防御率8.44。2016年イースタン19試合2勝3敗,防御率7.28。オフに育成契約となり背番号は「117」へ変更された。

2017年イースタン28試合5勝6敗,防御率4.43。
2018年のオープン戦で一軍初昇格。リリーフで結果を残し,開幕前の3月20日に支配下登録。背番号は「62」に変更となり,自身初となる一軍登録並びに開幕一軍入りを果たし,4月3日広島戦(神宮)でプロ初登板。しかし5日館山昌平との入れ替わりで登録抹消。結局一軍登板はこの1試合のみ。

2019年はイースタンで2試合連続完投勝利など結果を残し,8月24日阪神戦(神宮)でプロ初先発の機会を与えられた。31/3回 6失点で敗戦投手となったが,9月15日広島戦(マツダ)で52/3回1失点の投球。入団7年目で嬉しいプロ初勝利を挙げた。

2020年はイースタン20試合0勝1敗2セーブ,防御率1.95の成績も一軍登板は皆無だった。
【記録】
 ・初登板:2018年4月3日広島戦(神宮)
 ・初奪三振:同上[石原慶幸]
 ・初先発:2019年8月24日阪神戦(神宮)
 ・初勝利・初先発勝利:2019年9月15日広島戦(マツダ)
 ・初打席:2019年8月24日[西勇輝]

64.風張蓮(2018-2020)←32.(2015-2017)
東京農業大学北海道オホーツクから2014年ドラフト2位指名。背番号は「32」。

一軍・二軍いずれもプロ初先発マウンドで2人目の打者で危険球退場という珍しいエピソードが。2015年3月29日日本ハム戦(戸田)。初回1死から11球目を危険球宣告され退場。プロ初登板初先発となった5月3日広島戦(神宮)でも初回1死から8球目が菊池涼介の頭部への死球となり危険球退場。プロ初登板での危険球退場はプロ野球史上3人目の出来事だった。2015年の一軍登板はこの試合のみ。イースタンは12試合1勝6敗,防御率5.02。

2016年8試合0勝0敗,防御率8.10。2017年3試合0勝0敗,防御率6.75と一軍では結果は伴わなかったが,イースタンでは2016年41試合3勝4敗3セーブ,防御率3.42。2017年51試合4勝0敗5セーブ,防御率1.76とファームでは安定感を増していた。

2018年.開幕直後の4月3日に一軍昇格すると,4月7日巨人戦(神宮)で,先発石川雅規を受け2回無失点に抑えると,チームは逆転勝利をおさめ,風張にプロ初勝利が舞い込んだ。
DSC02128.JPG
ここで信頼感を得た右腕は,再調整の期間もありながら,53試合に登板。572/3回を投げ2勝3敗,防御率4.37。
しかし2019年14試合防御率7.11。2020年11試合防御率7.98とエレベーター選手は脱せず。9月3日阪神戦(甲子園)では自身5年ぶり2度目となる先発マウンドもアピールには程遠かった。風張の退団により2014年ドラフト組は6年で全滅となった。

【記録】
 ・初登板・初先発登板:2015年5月3日広島戦(神宮)
 ・初奪三振:2016年4月19日阪神戦(甲子園)[江越大賀]
 ・初勝利:2018年4月7日巨人戦(神宮)
 ・初ホールド:2018年6月16日日本ハム戦(札幌ドーム)

68.山中浩史(2014途-2020)
2014年7月20日。川島慶三・日高亮との交換トレードで,新垣渚と共にヤクルトへ移籍。背番号「68」。

移籍から5日後の7月25日DeNA戦(神宮)に移籍後初登板。一年目は7試合勝ち敗け無し。

2015年6月12日埼玉西武戦(プリンスドーム)でシーズン初登板初先発。牧田和久とのアンダースロー対決を制し,プロ初勝利。ここから怒涛の快投を魅せ続けてくれた。8月11日広島戦(マツダ)で自身初の完投勝利を完封で飾り,ヤクルトでは1958年金田正一以来となるシーズン初登板からの6連勝を記録。
8月18日DeNA戦(横浜)で右大胸筋肉離れ。翌8月19日に出場選手登録抹消。9月20日阪神戦(甲子園)復帰したが,敗戦投手となり連勝記録はストップしてしまったが,チームのリーグ優勝に大きく貢献してくれた選手の一人であり,山中がいなければ優勝は無かったといっても過言ではないだろう。だがクライマックスシリーズ,古巣ソフトバンクとの日本シリーズでは登板機会がなかった。

2016年もシーズン初登板初先発となった4月20日阪神戦(甲子園)で勝利投手となり,登録抹消を挟みながらも先発ローテーションに定着し22試合に登板。とりわけ阪神戦には相性良く2試合連続完投勝利など6試合3勝1敗,防御率1.49と虎キラーぶりを発揮。いう好成績を残した。一方で対広島戦は4試合0勝4敗,防御率7.91。カードによっての起用法も模索されるようになっていく。

開幕ローテーション入りした2017年だったが,初勝利は9試合目の7月28日中日戦(神宮)と,13試合2勝6敗,防御率5.14。
DSC06749.JPG

2018年4月12日中日戦(ナゴヤドーム)で自身4年ぶりの救援登板。6月28日中日戦(神宮)で移籍後初ホールドをマークするなど配置転換もあったが,シーズン終盤8月30日阪神戦(甲子園),9月15日阪神戦(甲子園)と好相性の阪神戦で2試合連続先発勝利とキラーぶりは健在だった。

2019年は5月30日に一軍登録。7月21日阪神戦(甲子園)にシーズン初先発も敗戦投手に。4試合0勝2敗と,5年振りに未勝利で終わった。

2020年シーズン初登板は8月2日中日戦(ナゴヤドーム)。「腹をくくって投げた」と8回を4安打無失点の完璧なピッチングも,打線が梅津晃大の前に沈黙。結局0-0のスコアレスドローで勝ち負けつかず。8月9日DeNA戦(神宮)では一球の失投が満塁本塁打となり敗戦投手も内容は決して悪くなかった。そして16日DeNA戦(横浜)。いきなり3連打を浴びて無死満塁のピンチを招き,押し出し四球を与えるも,以降変幻自在の投球術でフライアウトの山を築き,5回を投げ切り701日ぶりの勝利投手に。しかし9月21日中日戦(ナゴヤドーム)4回3失点で敗戦投手に。これが最後の登板となってしまった。

【記録】
 ・初勝利・初先発勝利:2015年6月12日埼玉西武戦(プリンスドーム)
 ・初完投・初完投勝利・初完封勝利:2015年8月11日広島戦(マツダ)
 ・初安打・初打点:2015年7月2日阪神戦(神宮)[能見篤史]

119.ジュリアス(2018-2020)←48.(2016-2017)
高知中央高から2016年ドラフト4位指名。背番号「48」。こちらも担当スカウトは岡林。

2016年5月15日ロッテ戦(戸田)で二軍公式戦初登板。しかし故障によりこの登板を最後に,8月31日に左肘関節のクリーニング手術。2017年5月10日に左肘靱帯のトミー・ジョン手術。オフに育成選手契約。背番号「119」。

2018年実戦復帰し,イースタン12試合登板,防御率5.11。オフに育成再契約。
DSC03855.JPG

2019年イースタン23試合2勝1敗,防御率5.49。オフにはウィンターリーグにも派遣され5試合2勝0敗,防御率0.60の成績で最優秀投手賞を受賞。今季の飛躍が期待されていた。

しかし2020年は育成契約後では最少のイースタン10試合の登板に終わり,防御率4.38。怪我に泣いた5年間だった。

67.平井諒(2010-2020) 167.(2016)
帝京第五高から2009年ドラフト4位指名。背番号「67」。

ルーキーイヤー2010年はイースタンで9試合登板。201/3回,防御率4.43。24奪三振が示すように速球を武器に三振を奪えるピッチャーとして期待も高く,秋季松山キャンプにも抜擢される。
2011年はイースタン14試合4勝2敗1セーブ,防御率2.75と順調に成長。
2012年自身初の春季浦添キャンプスタートから開幕一軍を勝ち取り,4月5日阪神戦(神宮)でプロ初登板。4月8日中日戦(ナゴヤドーム)延長10回裏2死から1/3回を無失点で試合完了しプロ初セーブ。4月28日広島戦(マツダ)で救援登板し,プロ初勝利。22試合2勝2敗1セーブと将来が楽しみなピッチャーだった。

ところが2013年。4月7日DeNA戦(神宮)でシーズン初勝利をあげるなど,開幕から7試合で防御率1.42と安定した投球を繰り広げていたが,4月18日に右肩痛で登録抹消。7月2日に右肩のクリーニング手術に踏み切り,以降2年半の長期にわたって登板無し。
この長いリハビリ期間に「スワローズカップ」のために館山昌平とともに燕市を訪れてくれたのだが,今でこそ言えるがふと見せる死んだ魚のような目の表情があまりに印象深くて,この日を境に平井が一段と気になる存在となった。
DSC09270.JPG
DSC09421.JPG

2015年11月12日に一度育成契約となり背番号も「167」となったが,2016年6月6日支配下選手に再登録。背番号も再び「67」へ。
ここから不死鳥のように平井が蘇ってくれた。6月14日に実に3年ぶりとなる一軍登録されると,8試合連続無失点など33試合に登板。延長11回表に登板した8月25日中日戦(神宮)では1回を無失点に抑えた裏に相手投手の暴投でチームがサヨナラ勝ち。実に1236日ぶりの白星が舞い込み自身初のお立ち台に。
「初めまして、平井諒です」「1点も与えないよう、気迫で投げました。緊迫した試合で緊張感がありました。もう1イニング投げる予定でしたが、試合を決めてくれないかなと祈るような思いでした」「お立ち台に立てると思っていなかったので興奮しました。(2軍投手コーチの)石井弘寿さんが引退試合で『一度もお立ち台に立ったことがない』と言っていて、中継ぎの投手には立てない場所なのかなと思っていました」
33試合1勝1敗7ホールド,防御率2.81と完全復活を感じさせてくれた。しかし平井の肩肘の状態は一進一退。隔年の登板が続くことになる。

DSC02841.JPG
2017年4試合,防御率10.13。2018年登板0。

2019年8月3日に2年ぶりに一軍登録され,8月17日中日戦(神宮)ではチーム初採用となった「ブルペンデー」でプロ初先発。8月31日中日戦(ナゴヤドーム)で1101日ぶりの勝利を挙げるなど,20試合登板。
DSC01823.JPG
ただ2020年に至ってはファームでも1試合も登板が無かった。キャンプの段階からいつ投げるのだと気にしていたが,結局登板が無いままシーズンが終わってしまった。。

【記録】
 ・初登板:2012年4月5日阪神戦(神宮)
 ・初セーブ:2012年4月8日中日戦(ナゴヤドーム)
 ・初奪三振:2012年4月14日DeNA戦(神宮)[石川雄洋]
 ・初ホールド:2012年4月26日中日戦(神宮)
 ・初勝利:2012年4月28日広島戦(マツダ)
 ・初先発登板:2019年8月17日中日戦(神宮)

一番印象的な一枚があった。ブルペンを支えた近ちゃん&平井。改めてバリバリの主力やエースピッチャーよりも中継ぎに感情移入しているんだなぁと。。
P1050360.JPG

ヤクルト井野が現役引退 プロ野球
 ヤクルトは2日、井野卓捕手(36)が今季限りで現役を引退すると発表した。井野は球団を通じ「かけがえのない時間を過ごせた。感謝しかない」との談話を出した。[ 11/2(月) 16:48配信 時事通信 ]

63.井野卓(2015-2020)
2015年オフに巨人を自由契約となっていた井野を相川亮二のFA移籍もあって手薄となっていた捕手強化を目論むヤクルトが獲得発表。
2016年6月29日広島戦(マツダ)で1013日ぶりの一軍出場。7月27阪神戦(甲子園)で1041日ぶりの打席。

2017年6月14日中村悠平の負傷により出場選手登録。6月16日日本ハム戦(神宮)では先発マスクの西田明央が自打球を受けたことで途中からマスクを被り,打席では実に2245日ぶりプロ通算11本目の安打が呼び水となり,チームも逆転勝ちを収めた。
翌6月17日日本ハム戦(神宮)ではデービッド・ブキャナンの完封勝利導き,マウンドでブキャナンと熱いハグを交わした。
DSC05518.JPG
2018年は自身初の開幕一軍入り。第3捕手的役割として一軍に帯同し,自己最多の47試合に出場。後半は石川雅規と原樹理とバッテリーを組むことが多くなり,8月16日巨人戦(神宮)では原の自身プロ初完封を導くリードを魅せてくれた。

2019年は7試合の出場に終わったが,2020年は中村悠平が開幕戦直前に離脱し開幕二戦目より一軍合流。嶋も負傷し出番が増え,8月6日広島戦(神宮)ではプロ15年目にして初の三塁打を放ち,廣岡大志の犠飛で生還。さらに次の打席ではスクイズを決める活躍でお立ち台に。「あんまり何も考えずに必死に走りました。三塁、遠かったです」と場内の笑いを誘った。

前橋工高から東北福祉大を経て東北楽天に入団。在籍7年間で出場は43試合。嶋基宏が不動のレギュラーにいた。トレードで巨人に移籍したが,そこには阿部慎之助がおり僅か2年で戦力外通告されていた。

縁の下の力持ちを絵に描いたような選手だ。試合の出番があるとしたら途中出場の捕手にアクシデントがあったときくらい。レギュラー捕手が安泰ならファームでも若手が経験を積むためにマスクを譲る。
「チームとしては,自分よりもレギュラーの捕手が出た方がいい。けがから戻ってくるまで,何とか間をつなぎたい」こんなコメントを発せられるくらい自分の立場と役割を理解し,チームに尽くしつづけた。常々感じさせる謙虚さ。
15年間通算148試合。打率.142,13打点。ホームランは0本。決して突出したような成績は無い。それでもそのうちヤクルトで95試合。プロ通算29安打中19本。うち4二塁打,1三塁打はいずれもヤクルト。プロ通算13打点中9打点。キャリアハイの4打点を2018年2020年にヤクルトでマークした。
球団を通じ「プロ野球生活15年、東京ヤクルトスワローズには6年間お世話になり、かけがえのない時間を過ごす事ができました。特にスワローズでは、試合にもたくさん使っていただき貴重な経験をさせていただきました。スワローズファンの皆さまに自分の応援歌を作っていただけた事が、すごくうれしく大切な思い出の一つです。多くの方々に支えていただき、15年間のプロ野球生活を過ごすことができました。本当に感謝しかありません。ありがとうございました」というコメントを残された井野さん。
球団に残ってくださるとのこと。他球団在籍経験+通算15年間もの経験を備えたバッテリー部門の指導者は現状のヤクルトには皆無なので一日も早く新たな道を踏み出していただきたいものです。
東京 ☁ | Comment(0) | SWALLOWS Memories | at 23:59 | 更新情報をチェックする

2020年10月24日

中沢が今季限りで引退 プロ野球・ヤクルト

 ヤクルトは24日、中沢雅人投手(35)が今季限りで現役を引退すると発表した。中沢は球団を通じ「入団して11年、優勝も経験でき、感謝しかない」との談話を出した。
 中沢は富山商高から中大、トヨタ自動車を経て、ドラフト1位で2010年に入団。主に救援を務め、今季は28試合に登板して1勝1敗、防御率7.36だった。23日時点の通算成績は202試合に投げて13勝15敗、防御率5.16。[ 10/24(土) 10:50配信 時事通信 ]

54.中澤雅人(2014-2020)←14.(2010-2013)
2009年ドラフトで菊池雄星に入札した末,外れ1位で指名。トヨタ自動車からの指名は1989年古田敦也以来2人目。背番号は高市俊から剥奪する形で「14」が与えられた。

2010年3月30日。チーム本拠地開幕戦となる中日戦(神宮)で初登板・初先発。51/3回2失点で,チームでは石川雅規以来8年ぶりとなるプロ初登板初先発勝利の快挙。
100330_6.jpg

4月23日横浜戦(横浜)。チームでは山部太以来16年ぶりとなる新人での完封勝利を挙げ2勝目。打撃でもチームでは1969年藤原真以来41年ぶりとなる新人投手の猛打賞を達成。5月1日横浜戦(神宮)で無傷の3勝目を挙げた。
しかし5月8日中日戦(ナゴヤドーム)。8回無失点投球も,味方の援護なく9回裏にサヨナラ負けを喫しプロ初黒星。15日ソフトバンク戦(神宮)も7回無失点ながら2敗目。このころチームは極度の打撃不振に陥っており,5月22日ロッテ戦(千葉マリン)ではこれまでの緊張の糸が切れたかのように,先発中澤までもが失点を重ね4-20の惨敗。少年が監督に暴言を吐く引き金となったとされている。結局ルーキーイヤーは7勝9敗 防御率5.68で終える。

しかし2年目のジンクスに陥った2011年。5月7日広島戦(松山)で初登録即先発も2回5失点でKO。結局登板はこの1試合のみに終わってしまう。

2012年は8月14日広島戦(広島)で初登板初先発を託されると,そのまま5回を投げ切り2年ぶりの勝利投手に。先発3試合で2勝をマークした。

2013年の初先発は7月5日中日戦(ナゴヤドーム)。5回を投げ勝ち負けつかず。以降2試合はいずれも4回もたずにKO。シーズン未勝利のまま8月19日に登録抹消されるとそのまま出番なく,オフには背番号「14」がドラフト3位の秋吉亮に渡り,中澤は「54」へと変更された。

2014年4月6日阪神戦(神宮)。この試合で先発したが2回もたずKO。結局この試合が中澤にとって最後の先発マウンドとなった。
DSC01627.JPG
140406 (3).JPG
翌7日に登録抹消,中継ぎに配置転換。8月6日に一軍復帰すると,リリーフとして登板を重ね,23試合で防御率0.84の好成績を残した。

2015年は中継ぎとして35試合に登板。ブルペンの貴重な左腕としてチームの14年ぶりリーグ優勝に貢献する活躍。

2016年19試合,2017年28試合,2018年は自己最多の37試合と,年々登板数を増やし,この年は自己最多の11ホールドをマークした。

2019年の初登板となった4月18日阪神戦(神宮)で12/3回4失点と打ちこまれてしまい翌19日に抹消。1試合の登板に終わる。

それでも2020年は開幕2カード目から一軍昇格すると,6月27日巨人戦(神宮)で,2点のリードを逆転された直後,6回表1死二塁のピンチに登板すると,代打中島を三振。坂本を申告敬遠して丸を中飛に打ち取り,その裏チームが逆転に成功。2016年8月7日阪神戦(神宮)以来1420日ぶりの白星が舞い込んだ。その後も貴重なワンポイントからイニング跨ぎまで貴重な存在として防御率も2点台まであげてきたが,あの20失点を喫した7月28日阪神戦(神宮)で火の点いた阪神打線に油を注ぐ1回6失点で防御率を爆上げしてしまった。これもあり28試合の登板で,防御率7.36。
「1軍での成績を見たら、しようがない。次に向けてステップするタイミング」と決断したという。

7月くらいから突如登場曲がZARDの「マイフレンド」に変更された。テレビから聴こえてきた「あなたを想うだけで 心は強くなれるずっと見つめてるから 走り続けて」のイントロ。
ひたむきだった遠い日の夢は
今でも眩しい
どんなに不安がいっぱいでも真っすぐ
自分の道を信じて
飾らない素顔のあなたが好き
変わってしまうことが哀しい

いつも輝いていたね少年のまま
瞳は My Friend
あなたがそばにいると何故か素直になれた
この距離通り抜ける
風になりたい

「飾らない素顔」で黙々と投げてくれた11年間。また一人ブルペンをそして戸田の投手陣を支え続けた中継ぎがユニフォームを脱いでいくことの寂しさ。「走り続けて」くれた中澤雅人投手。ありがとうございました。

記録
 ・初登板・初先発・初勝利:2010年3月30日中日戦(神宮)
 ・初奪三振:同上[山井大介]
 ・初完投勝利・初完封勝利:2010年4月23日横浜戦(横浜)
 ・初安打:2010年4月23日横浜戦(横浜)[清水直行]
東京 ☀ | Comment(0) | SWALLOWS Memories | at 23:59 | 更新情報をチェックする

2020年10月11日

ヤクルトの五十嵐が今季限りで引退 41歳、速球武器に救援一筋―プロ野球

 日米球界で救援として活躍したヤクルトの五十嵐亮太投手(41)が、今季限りで現役を引退することが11日、分かった。既に球団に申し入れ、了承された。後日、引退セレモニーなどが行われる予定。今季は開幕前に下半身のコンディション不良で離脱し、ここまで1軍で登板機会はなかった。
 五十嵐は千葉・敬愛学園高からドラフト2位で1998年にヤクルト入り。剛速球を武器に中継ぎや抑えとして活躍し、石井弘寿(現ヤクルト投手コーチ)とともに「ロケットボーイズ」と呼ばれた。2001年にリーグ優勝と日本一に貢献。04年には当時の日本最速に並ぶ158キロをマークし、37セーブなどで最優秀救援投手に輝いた。
 海外フリーエージェント(FA)権を行使し、10年から米大リーグに挑戦。メッツなどでプレーし、13年からはソフトバンクに在籍。昨季、古巣のヤクルトに復帰した。
 日米通算905試合全てが救援登板で、日本球界では822試合に投げて65勝39敗70セーブ、防御率2.93。メジャーでは83試合で5勝2敗、防御率6.41。 [ 10/11(日) 10:47配信 時事通信 ]

53.五十嵐亮太(1998-2009・2019-2020)
千葉敬愛学園高から1997年ドラフト2位指名入団。実はこの当初の指名は仙台育英高の新沼慎二捕手で,ヤクルト・横浜・日本ハムの3球団による重複指名となり抽選に。逆ウェーバーが適用され,本来であればヤクルト→横浜→日本ハムの順でクジを引くはずが,事務局の不手際で日本ハム→横浜→ヤクルトの順で抽選した結果,横浜が交渉権獲得し,いわゆるハズレ2位で指名したのがこの五十嵐だった。コミッショナーは不手際を認めたものの再抽選とはならなかったため,もしかしたら状況次第でそもそもヤクルト五十嵐は誕生していなかったのかも。結果的に野村克也監督最後のドラフト入団にもなった。

ルーキーイヤー1998年は二軍で10試合に登板。ファーム優勝を決めた試合で,6回参考記録ながら完全試合を達成し一躍脚光を浴び,ファーム日本選手権では高卒ルーキーでは史上初めてMVPを獲得し,将来を嘱望された。

高卒2年目の1999年4月20日中日戦(神宮)で一軍初登録即プロ初登板は延長12回同点の場面で回ってきたが,敗戦投手というデビュー戦に。5月27日横浜戦(神宮)7回表から登板して1回を無失点に抑え,その裏にチームが3点を取って逆転したことでプロ入り初勝利を挙げた。6月末に再調整となるも, 8月に一軍復帰。コントロールが定まらず四死球も多かったが,150km/h台のスピードボールを武器に,6勝をマークし,勝ち運の片鱗も見せていた。

自身初の開幕一軍を果たした2000年。4月だけで3勝。オールスター前にハーラートップの11勝と,“五十嵐が投げれば勝てる”神話が構築されつつあり,監督推薦で自身初のオールスターゲームに出場。8月8日阪神戦(神宮)でマメを潰し約一ヶ月戦列を離れることになったが,古田敦也とのコンビで最優秀バッテリー賞にも選出された。オフの契約更改で背番号11番への変更が打診され本人が了承しカレンダーにも記載されたが,“53番に愛着が強くなった”ということで変更は取り消された。
53.jpg

2001年はキャンプで肉離れ。開幕一軍こそ間に合ったが,5月16日に右肘関節炎で登録抹消。7月14日に復帰。チームの優勝争いが佳境を迎える9月にも2週間ほど戦列を離れたが,それでも41試合登板で防御率2.59とブルペンを支えた。日本シリーズ初登板となった第2戦(大阪ドーム)。同点の8回裏タフィ・ローズに3ラン本塁打を浴び敗戦投手に。

ファンからの公募により,石井弘寿と共に「ロケットボーイズ」の愛称がつけられた2002年。不動のセットアッパーとして64試合に登板。8勝をあげ,防御率は自己最高の2.08。オールスターゲームやこの年限りでメジャーに移籍した松井秀喜との速球勝負で注目を集めた。

2003年は2年連続60試合登板となる66試合に登板。守護神高津臣吾につなぐセットアッパーの役割を果たす。

IMGP0124.JPG
その高津がメジャーに移籍してストッパーを託された2004年。6月3日阪神戦(甲子園)で当時のNPB最速タイ記録となる158 km/hを計測。オールスターゲームにはファン投票1位で選出された。9月20日阪神戦(神宮)でも3球連続を含む計4球で158 km/hをマーク。球界再編騒動で揺れた一年だったが,球団セーブ記録を更新する37セーブを挙げ,最優秀救援投手に輝いた。

2005年開幕直後の4月9日に右大腿四頭筋肉離れで離脱するなど4年連続の60試合登板はならず,ストッパーの座も石井弘に譲る形となったが,2年連続でオールスターゲームファン投票1位に選出されるなど後半にかけて復調し49試合に登板した。
IMGP3008.JPG

順風満帆だった五十嵐に試練が訪れたのは2006年だった。6月14日不調による二軍降格。8月16日に左肩違和感を訴えた石井弘の代わりに一軍復帰。9月18日阪神戦(甲子園)2番手で登板し1/3イニングで降板。9月21日に登録抹消。精密検査の結果右肘靭帯断裂が判明。オフにトミー・ジョン手術に踏み切ることとなり,2007年は実戦登板無し。

術後の経過は良好で,2008年3月28日開幕巨人戦(神宮)の9回表に実に1年半ぶりの一軍登板。最速154 km/hで試合を完了させたがこの登板で左太腿を肉離れし翌日に登録抹消という不運。4月29日に再登録されると,松岡健一・押本健彦・林昌勇とに強力リリーフ陣の一角を担い,9月20日横浜戦(神宮)では復帰後最速となる157 km/hを記録し,自身2年半ぶりのセーブを記録するなど,術後とは思えない安定感あるピッチングが目立つようになった。

2009年も林につなぐセットアッパーとして,21試合連続無失点を記録。通算500試合登板となった8月29日中日戦(神宮)でバント処理の際に急性腰痛となり翌日に登録抹消。9月11日に復帰しチーム史上初となるクライマックスシリーズ出場に貢献。このオフに海外フリーエージェント権を行使して米大リーグメッツへ移籍を表明。
DSC08565.JPG

メジャー3球団で83試合に登板。2013年にソフトバンクへ日本復帰。2018年12月26日戦力外通告を受けたソフトバンクからヤクルトへの10年ぶりの復帰が決定。背番号も前回在籍時と同じ「53」が用意された。

DSC00997.JPG
DSC01001.JPG

2019年4月5日中日戦(神宮)で移籍後初勝利が舞い込みお立ち台に上がった五十嵐は,「ただいま」と目を潤ませ,「うれしい気持ちで、心が揺れ動いた。あの景色をね…。また見られるとは思わなかった」と10年前と較べ大幅に観客が増加した神宮のスタンドを見渡した。その後も好投と強運を発揮し,4月だけで5勝。
DSC02708.JPG
5月28日広島戦(神宮)で史上7人目となる通算800試合登板。8月8日阪神戦(神宮)には史上4人目となる日米通算900試合登板を果たすなど,45試合に登板し5勝4ホールド 防御率2.98の成績で,オフには次なる目標は日米通算1000試合登板と語っていた。
新型コロナウィルスの影響で開幕が延期となる中で5月28日に41歳の誕生日を迎えた2020年。6月10日日本ハムとの練習試合(神宮)で打ち込まれ開幕一軍を逃すと,以降一軍に上がること無く今季限りの現役引退を決断した。

甘いマスクで“球界のキムタク”と呼ばれたルックスだけでなく,今でこそ普遍的となっているが,2000年代においては150km/h台後半の剛速球を投げるピッチャーは五十嵐しかいなかったといっても過言ではなかった。
先発登板0。リリーフ登板だけで65勝を挙げるというのも容易な数字ではない。これが証明するように何かをもっている男。それは五十嵐が登場することでスタンドの空気を変える何かがあるからなんだろう。老若男女問わず多くのファンを魅了させてくれた。そして何より最後にスワローズに帰ってきてくれて本当にありがとうございました五十嵐亮太。

タイトル
 ・最優秀救援投手(2004年)
表彰
 ・ファーム日本選手権MVP(1998年)
 ・最優秀バッテリー賞(2000年―古田敦也)
 ・月間MVP(2004年7月)
記録
 ・初登板:1999年4月20日中日戦(神宮)
 ・初奪三振:同上[山崎武司]
 ・初勝利:1999年5月27日横浜戦(神宮)
 ・初セーブ:1999年10月3日広島戦(広島)
 ・初ホールド:2005年5月21日オリックス戦(神宮)
 ・500試合登板:2009年8月29日中日戦(神宮)※史上84人目
 ・800試合登板:2019年5月28日広島戦(神宮)※史上7人目
 ・日米通算900試合登板:2019年8月8日阪神戦(神宮)、※岩瀬仁紀(1002試合),米田哲也(949試合),金田正一(944試合)に次いで史上4人目
その他の記録
 ・1球勝利投手:2006年5月2日広島戦(神宮)※史上21人目(セ・リーグ12人目)
 ・オールスターゲーム出場:6回(2000年,2002-2005年,ソフトバンク時代1回)
 ・初登板からの連続救援登板:822 (NPB記録更新中)

年度別成績
年度試合投球回被安被本三振四球死球暴投失点自責防御率
1999年36641472/334459291327264.91
2000年561141751/3421190331628263.11
2001年41230412/325251282113122.59
2002年648247849897183819182.08
2003年665507460983331733323.89
2004年665337741/357986361424222.66
2005年49324562/352660271624223.49
2006年291212533318112420176.12
2008年44323432/33534262313122.47
2009年56323532/342344203119193.19
2019年45510421/335433243319142.98
通算8226539708666327192036233603052822.93

東京 ☁ | Comment(0) | SWALLOWS Memories | at 20:00 | 更新情報をチェックする

2020年04月09日

関根潤三さん死去、93歳 「二刀流」、元大洋、ヤクルト監督―プロ野球

 プロ野球の近鉄で投手、外野手として活躍し、大洋(現DeNA)、ヤクルトの監督を務めた関根潤三(せきね・じゅんぞう)さんが9日午前9時45分、老衰のため東京都内の病院で死去した。93歳だった。東京都出身。葬儀の日取りは未定。近く家族葬で執り行う。喪主は長男優一(ゆういち)氏。
 法政大で投手として東京六大学リーグ歴代5位の通算41勝(30敗)を挙げ、打者としても活躍。1949年秋に来日した米マイナーリーグのサンフランシスコ・シールズ戦で六大学選抜の投手として好投した。
 50年近鉄に入団。54年に16勝するなど通算65勝94敗。57年に外野手となり、通算1137安打、打率2割7分9厘。投手、野手の両方でオールスターに出場した。
 65年に巨人でプレーし、引退。その後はコーチなどを経て82年から大洋で3年間、87年からはヤクルトで3年間監督を務めた。2003年野球殿堂入り。穏やかな語り口の解説に人気があり、温厚な人柄は長嶋茂雄元巨人監督ら多くの野球人に慕われた。[ 4/9(木) 17:03配信 時事通信 ] 

コロナで滅入っているときに再び訃報。ノムさんが亡くなってから2ヶ月と経っていないのに,ノムさんの前任で1987(昭和62)年から1989(平成元)年まで3年間スワローズの監督を務められた関根潤三さん。

自分が生まれて初めて神宮球場に連れていってもらったのが1988(昭和63)年8月6日なので,その時監督を務められていたのが関根さんでした。当時はほんと野球のルールすら分からなくて,知っている選手も辛うじてテレビで見たことのある巨人の原辰徳と呂明賜とヤクルトの長嶋一茂くらいの少年でした。まぁこの日を境に劇的に変わっていくのですが←

3年連続Bクラスで退任となり,野村克也監督にバトンタッチ。関根さんはフジテレビの解説者としてお茶の間の人に。

IMG_20200409_203850.jpg
高校に合格した15の春でしたかね。オープン戦で放送ブースにいらした関根さんに”サインお願いします”と色紙を差し出すと,”僕なんかで良いの?”なんて謙遜されながらも,嬉しそうにスラスラとペンを走らせてくれました。快く握手もしてくださったことを15の少年は鮮明に憶えています。

野球解説はもちろんのこと,フジテレビ全盛期には珍プレー好プレーやプロ野球対抗歌合戦といったオフのバラエティ番組にもゲストとしてご出演されていました。

SWALLOWS BASEBALL L!VEでは2011年9月18日横浜戦が最後の解説となっていました。
 2006年 7試合2勝5敗 勝率.286
 2007年 6試合3勝3敗 勝率.500
 2008年 10試合3勝7敗 勝率.300
 2009年 8試合4勝4敗 勝率.500
 2010年 10試合4勝6敗 勝率.400
 2011年 5試合0勝3敗2分 勝率.000
これまた関根さんらしいというか16勝28敗2分 勝率.364でほぼ1勝2敗ペース(苦笑)。
関根さんを語るエピソードとして有名な「(起爆剤と間違え)覚醒剤」発言。交流戦開幕から9連敗を喫し,試合後に高田繁監督(当時)の辞任が発表されることとなった2010年5月26日東北楽天戦の解説を務めていたのが関根さんでした。

中継解説からは退かれたものの,その後もCSプロ野球ニュースには定期的にご出演され,晩年は週末のご意見番としてあの笑顔を届けてくれました。
監督時代の教え子の笘ぴょんが必死にフォローしながら毎月最終日曜日のご出演のみになったのが4年前(2016年)でした。8月までは出演されていましたが,翌9月はご出演がなく,翌年の開幕直前スペシャルにもご登場されなくなりました。オフの『プロ野球ここだけの話』でプロ野球ニュースを特集された時もご出演がなく,心のどこかで気にかけていたのですが,昨年秋の東京六大学野球母校法政大の試合を神宮球場でご観戦されているお姿が報道されていたのを拝見していたので,安心していたところの訃報でした。

自分にとっては祖父くらいの年齢でまさにおじいちゃんという言葉がぴったりの関根さん。「よろしくどうぞ」この一言と,あの笑顔で心が穏やかになりました。

謹んでご冥福をお祈り致します。

2020年4月9日
東京 ☁ | Comment(0) | SWALLOWS Memories | at 21:53 | 更新情報をチェックする

2020年02月11日

野村克也さん死去 三冠王の名捕手、名監督―「月見草」「ID野球」・84歳

 プロ野球の南海(現ソフトバンク)で三冠王も獲得した強打の名捕手として活躍し、ヤクルトを3回日本一に導くなど名監督でもあった野村克也(のむら・かつや)さんが11日午前3時30分、虚血性心不全のため東京都内の病院で死去した。84歳だった。同日未明、都内の自宅から病院に搬送されていた。葬儀は近親者のみで執り行い、後日、お別れの会を開く。
 京都府網野町(現京丹後市)出身。府立峰山高からテスト生として1954年に南海へ入団し、確実性と長打力を兼備した強打者になった。57年に初タイトルの本塁打王を獲得。65年には戦後初の三冠王になった。
 捕手としても打者の癖や性格を観察して配球に生かすなど才能を発揮し、64〜66年のパ・リーグ3連覇や日本一2回など南海の黄金期を支えた。70〜77年は監督兼任で、73年にリーグ優勝。
 77年に南海監督を解任されたが、「生涯一捕手」と語ってロッテ、西武で現役を続行。45歳で引退するまで3017試合出場のプロ野球記録(当時)をつくった。現役通算2901安打、打率2割7分7厘、657本塁打、1988打点。本塁打王9回、首位打者1回、打点王7回。
 90年にヤクルト監督となり、データ重視の「ID野球」を掲げ、古田敦也らを育てて92年リーグ優勝、93年には西武を倒して日本一になった。95、97年にも日本一。
 99〜2001年阪神監督。06年に楽天監督となり、09年には球団創設後最高の2位に躍進させ、退任した。監督通算1565勝1563敗76分けで勝利数は歴代5位。卓越した野球理論で多くの選手を育てた。89年野球殿堂入り。02年から05年までは社会人のシダックスで監督を務め、03年の都市対抗大会で準優勝に導いた。
 「ノムさん」と親しまれ、講演や解説では「ぼやき」と呼ばれた辛口の批評や数々の名言を織り交ぜて野球論を語った。巨人の長嶋茂雄、王貞治と自らを比較して「僕は人の見ていない所にひっそりと咲く月見草みたいなもの」と話すなど、現役時代から数々の語録を残した。著書多数。沙知代夫人(17年死去)とそろってのタレント活動も話題になった。[ 2/11(火) 9:54配信 時事通信 ] 

建国記念の日の祝日。ゆっくり寝ていられる。9時過ぎても布団の中でスマホを見ながらダラダラ…そんな中でツイッターから流れてきた速報。TBS一社しか流さないからガセ?!すっかり目が覚めてしまった。

しかし10時のNHKニュースで事実を受け止めた。。現役時代の映像。監督としての胴上げシーン。そして昨年のドリームゲーム。まさに最期となってしまった打席…

教え子に囲まれて,ユニフォーム姿でグランドに立つ。どれだけ特別な時間と空間だったことだろう。

沙知代婦人に先立たれ,元気をなくしていることは伝えられていた。ドリームゲームでも自力では立ち上がれなくなっていた。たとえ車椅子でも,あの声。そうノムラ節は健在だった。

先月は金田正一さんのお別れの会や,スワローズ球団のOB会にも列席され,ヘッドコーチをなんて話が聞かれたばかりだった。最愛の奥さまと同じ亡くなり方だったという。。

とにかく人を遺した指導者だ。ヤクルトで栗山英樹,高津臣吾,辻発彦,三木肇。阪神で矢野輝弘,与田剛と,2020年の12球団の監督の半分が現役時代野村監督の下でプレー経験がある。ほかにも日本代表稲葉篤紀監督,古田敦也,石井一久から新庄剛志,田中マー君,嶋基宏に至るまで…
940320.jpg

自分にとっても野村監督がヤクルトスワローズを率いていたのは小・中・高のちょうど9年間。人生一番多感な時期に黄金期を魅せられたから,20年経っても変わらない趣味になったんだろうな。
当時はネットもCS放送もないから,今に比べたら試合を見られる頻度は少なかった。下手したら今1年間トータルで見られる映像の方が,ノムさんの9年間で見た映像より少ないかも知れない。だけどちゃんと覚えてるんだ。
改めてノムさんとの出会いに感謝だし,それだけの時間が経ってきているということも痛感する。。

IMG_20200211_193017.jpg
ヤクルトスワローズという球団を語る上で,野村さんの血というものはこれからも脈々と受け継がれていく。ありがとうございました。御冥福をお祈り致します。

2020年2月11日
東京 ☀ | Comment(0) | SWALLOWS Memories | at 20:23 | 更新情報をチェックする

2019年10月23日

ヤクルト屋宜が戦力外=プロ野球

 ヤクルトは23日、屋宜照悟投手(30)に来季の契約を結ばないと通告した。[ 10/23(水) 11:07配信 時事通信 ]

(午前中の段階では)日本シリーズの最中にヤクルトでは珍しい第2次戦力外通告。記憶では2009年大塚淳現ブルペン捕手以来2人目でしょうか。大塚の場合は,一軍がクライマックスに進出しており,フェニックスリーグの野手の駒が足りずに試合に出たうえでの戦力外通告と同時にスタッフへの転身でしたが,今回の屋宜の場合はどこか非情というか・・

58.屋宜照悟(2017途-2019)
DSC03552.JPG
2017年7月24日。杉浦稔大との交換トレードで北海道日本ハムから移籍。
一軍登板は2017年8月1日巨人戦(静岡),8月2日巨人戦(神宮),2019年5月19日DeNA戦(神宮)の3試合。20/3回で計8失点。防御率に換算すると36.00。一軍の戦力には程遠かった。

ドラフト1位の杉浦を放出してまで獲得するには理由があった。故障で投げられない杉浦を支配下に抱えておくだけの余裕が無かった。なにせファームの試合で投げられる健康体の投手が圧倒的に不足しており,試合を行えるかどうかのレベルまで行っていたのだから・・

戸田球場が荒川流域の調整池の役割を担うのであれば,屋宜は戸田軍を沈没から守る防波堤のような存在だったのではないか。
2017年19試合251/3回,2018年41試合451/3回,2019年41試合38回。ほぼ2試合に1試合に登板。2試合連続先発登板なんていうこともあった。

言葉は悪いが二軍の運用要員でこの仕打ち。「まだ何も考えていない。体は問題ない。これからじっくり考えたい」と語るが,球団は面倒を見てくれるのだろうか。生え抜きと外様。ファミリー体質が如実に出てしまうのだろうか。

海外の秋山、国内は鈴木らに注目=24日、FA宣言解禁−プロ野球
 プロ野球の日本シリーズが23日に終了したことを受け、フリーエージェント(FA)権行使の意思を示すFA宣言が24日に解禁となる。今季、日本の12球団と交渉できる国内FA権を取得した鈴木(ロッテ)、福田(ソフトバンク)や、米大リーグへの移籍も可能な海外FA権を得た秋山(西武)らの動向が注目される。
 今季終了時のFA有資格者は90人。十亀(西武)、益田(ロッテ)らは国内、堂上、大島(ともに中日)らは海外FA権を有している。
 FA宣言する選手は、日本シリーズ終了翌日から7日以内(土、日曜と祝日除く)に権利行使の意思を在籍球団に伝えなければならず、今年の期限は11月1日。同2日にコミッショナー公示され、翌3日から交渉できる。[ 10/23(水) 22:12配信 時事通信 ]

シーズンは全日程を9月中に終え,日本シリーズも4試合で終了。来年は10月17日まで公式戦が組まれており,10月23日はクライマックスシリーズファーストステージすら開幕していないので,例年になく早い段階でのストーブ点火となります。
東京 ☁ | Comment(0) | SWALLOWS Memories | at 22:59 | 更新情報をチェックする