2011年10月03日

石井弘、引退発表「天国も地獄も味わった」

 ヤクルトは29日、石井弘寿投手(34)が今季限りで引退すると発表した。同投手は埼玉・戸田のクラブハウスで大木勝年球団常務と会談し、引退を正式に申し入れて受理された。
 06年秋の左肩腱板断裂修復手術以来1軍登板はなく、16年間の現役生活に終止符。02年には最優秀中継ぎ投手に輝くなど、通算338試合で27勝15敗55セーブの成績を残した左腕は「肩のトレーニングで悩まなくていいと思ったらすっきりした部分もある。天国も地獄も味わった。それを後輩に伝えていきたい」と話した。
 引退を決意したのは今月上旬。テレビで1軍の試合を観戦し「一線級の投手を見て、それだけの腕の振りで投げられるのかを考えたら、できないと思った」。また、若手左腕の台頭で後進に道を譲ろうと考えたことも一因となった。今後は球団に残る見通しで、大木球団常務は「今までの経験をチームに注入してもらいたい」とポストを用意する方針を示した。

 ▼ヤクルト・石井弘寿投手 すっきりしました。少し解放感もあります。でも、習慣で毎日ウエートルームには行ってしまうんですけどね。5年間、みんなが支えてくれたからリハビリすることができました。本当にみんなにお世話になりました。
 左肩の状態は投げることはできますが、アドレナリンが出てガーンといったり、バランスを崩したりしたら、1、2週間(登板間隔を)空けなきゃいけなくなる。強くダウンしてしまう。脇腹や内転筋を痛めたり、悪循環でした。リリーフは連投しないといけないし、ユニホームを脱ぐしかなかった。
 久古、赤川、日高とかいい左投手が出てきているし、自分でもすっきりしています。左肩痛だった八木も投げ始めて、せっかく試合で投げるなら若い投手を投げさせたいと思うようになった。伊東2軍投手コーチにも「若いやつを投げさせてほしい」と言ったこともありました。
 引退試合は、チームの優勝もあるので難しいと思います。(宮本)慎也さん、相川さんを先頭に石川、館山もチームを引っ張っているし、優勝してもらいたい。もし、引退試合が決まることがあれば、ファンに感謝の思いを伝えたい。結局、僕はファンの前に出ることができなかったので。みっともない姿は見せられないし、10月いっぱいは練習を頑張ろうと思っています。[ 2011年9月30日 06:00 スポーツニッポン ]


61 石井弘寿
始まりにも終わりにもスワローズとの不思議な縁があった。

始まり:同じ千葉県のサウスポーである石井一久に憧れて東京学館高校を選択したという。ところが石井一は東京学館浦安高校出ということで系列校違いだったという入団時のエピソードは有名だった。

終わり:その東京学館高校で,1学年先輩が相川亮二で,その相川をスカウトしていた小川淳司スカウト(当時)の目に留まり,石井弘の入団に至ったというエピソードがここにきて明らかになった。

1995年ドラフト4位でスワローズに指名(1位三木肇,2位宮出隆自,3位カツノリ)され,ようやく憧れの人・石井一と対面することとなる。背番号も石井一の「16」をひっくり返した「61」が空き番となり,それを着用することとなった。
余談だが,石井一が2007年オフにFA宣言して埼玉西武に移籍した際,背番号「16」は涌井秀章が付けていたため,一久自らが石井弘と同じ「61」を希望して1年間だけ背負った。翌年涌井が松坂大輔の背負っていた「18」に変更することになり,石井一も「16」に変更。

こうしてスワローズに誕生した二人の石井姓。1996年シーズンから「石井一」「石井弘」と表記されるようになった。
一軍デビューはルーキーイヤーだった。1996年7月6日対広島12回戦(神宮)で9回表に4番手として救援登板し,2/3イニングを無失点。その試合で佐々岡真司投手から初奪三振も奪った。8月10日対広島20回戦(神宮)では救援登板後に味方が逆転に成功したため,プロ初勝利が転がり込む。そしてその6日後の8月16日対巨人17回戦(東京ドーム)に野村克也監督(当時)の奇襲作戦でプロ初先発。1回1/3イニングでKOとなったが,そのスピードには目を瞠るものがあった。

ところが,早期に一軍デビューしてしまったが故のプロの壁にぶち当たる。課題の制球難の露呈,体力不足,肘の故障などが相まって,翌1997年はチームの優勝が決定した後の9月30日対中日26回戦(ナゴヤドーム)の1試合2イニングのみの登板に終わり,1998年はとうとう一軍登板機会すら無かった。

若松勉監督と小川二軍監督が就任した1999年に転機が訪れた。
キャンプ・オープン戦で結果を残し自身初となる開幕一軍を勝ち取り,ビハインド時の中継ぎ要員として一軍帯同。25試合に登板し,0勝1敗 防御率6.28という成績は一軍の投手としては物足りないものであったが,そのセンスは買われていた。ある意味で伸び悩む石井弘に首脳陣は,投手に見切りをつけ,持ち前の打撃を活かすために打者に転向してみてはどうかと示唆をした。実際にその年の秋季練習から,ピッチングと並行してバッティング練習にも取り組んでいた。その現場の最高責任者として小川二軍監督も親身になって練習に付き合ったにちがいない。こうした練習を通して,石井弘は改めて投手としての自覚がより強くなったとされている。

プロ5年目を迎え,同学年でかつ同じ左腕の藤井秀悟らが入団してきた2000年。オープン戦も残り2試合という段階でようやく一軍のオープン戦へお呼びがかかった石井弘。開幕一軍の見極めとなる3月25日対西武戦(西武ドーム)で,2イニング無失点ピッチ。開幕一軍に滑り込んだ。投手事情もあって5月3日対広島5回戦(広島)には自身4年ぶりとなる先発登板。5イニングを投げ切り,これまた自身4年ぶり先発としては初の勝利投手となる。こうして中継ぎながらローテーションの谷間を埋めるような形で5月18日対阪神7回戦(甲子園),6月14日対広島14回戦(広島)と先発をこなしたが,いずれも4イニングまでもたなかった。それ以降は完全に中継ぎとしてのポジションに収まっていく。夏場に一ヶ月ほど一軍登録を外れたものの,トータルで45試合に登板。76回1/3イニングを投げ4勝3敗。防御率も3.30と大きく上昇した。

プロ初セーブを挙げたのはチームが優勝した2001年。4月24日対中日4回戦(ナゴヤドーム)のことだった。5月3日対横浜5回戦(神宮)では,横浜の相川捕手のプロ初本塁打を献上している。この年も夏場に一ヶ月半ほど戦列を離れたが,39試合の登板で2勝3敗1セーブ。日本シリーズでも第3戦(神宮)に登板し,大村・水口・ローズの打者3人を無失点に抑えている。

憧れだった石井一がメジャーへと旅立ち,登録名が「石井」となった2002年。まさに一本立ちした。セットアッパーとしてリーグ最多,かつ球団記録を更新する69試合に登板。6勝2敗5セーブ,防御率1.51の成績で最優秀中継ぎ投手のタイトルを獲得。オールスターにも初選出された。右の五十嵐亮太・左の石井弘という二人の150km/hを超えるストレートを投げ込むコンビに,ファンからついた愛称は「ロケットボーイズ」。まさにロケットのような剛球で相手打者を力でねじ伏せていった。

2003年は開幕直後に左脇腹筋挫傷で離脱し前半を棒に振ったこともあり,36試合の登板に留まったが,6勝1敗1セーブ,防御率1.99と2年続けて安定した数字を残した。その年のオフに,守護神・高津臣吾もMLBへの挑戦を決断。相次ぐ先輩の移籍に,自身もゆくゆくはメジャーへ―そんな将来のビジョンを公言するようにもなった。

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高津の抜けた穴は五十嵐と石井弘のダブルストッパーで埋めると臨んだ2004年。左大腿内転筋挫傷による離脱やアテネ五輪への参加もあって,守護神の座は五十嵐に譲ったが,38試合の登板で,4勝2敗5セーブ,防御率2.05と変わらぬ安定感を誇った。だがこの年は投手よりも打者・石井弘の方が鮮明に記憶に残っている。5月4日対中日3回戦で,8回裏にあの岩瀬仁紀からライトへ貴重な追加点となるソロ本塁打を放ったのだ。非凡な打撃センスをこの一打で証明した。この当時に野手転向しろなんて言うものは誰ひとり居なかっただろう。日の丸を背負い,日本を代表する屈指の左腕にまで成長していたのだから・・・

2005年。今度は五十嵐が右大腿四頭筋肉離れで離脱したため,今度は石井弘が守護神の座に君臨。自身初のフルシーズン一軍登録で,背番号と同じ61試合に登板。4勝3敗37セーブ,防御率1.95の成績を残し,オフには胸を張って予てから要望してきたメジャー移籍を球団に訴えた。ところが球団は古田敦也新監督の就任により事情が変わったとして(メジャーへの)移籍を認めないと主張したため,話し合いは平行線を辿る。交渉の末球団が2006年オフの移籍を容認したことでヤクルトへの残留を決心。

まずは3月に初めて開催される第1回WBCの日本代表としての調整に余念がなかった。2006年3月5日WBCアジアラウンド対韓国戦(東京ドーム)。2-1と日本が1点リードして迎えた8回表だった。杉内俊哉に代わりピッチャー石井弘のコール。先頭李炳圭を三振,李鍾範には中安で1死一塁。迎えるはアジアの主砲・李承ヨプ。打ち返された打球は無情にもライトスタンドへと吸い込まれた。多くのファンが気落ちする中で石井弘は投球を続ける。洪性フンは打ち取るも,李晋暎に四球を与え2死一塁としたところで,王貞治監督は投手を藤川球児にスイッチを告げた。
石井弘は左肩に違和感があるということで,アメリカでの決勝ラウンドには馬原孝浩が緊急招集されて行った。

シーズンもあるので大事を取っての措置だろうと当初は軽く見ていた。開幕一軍こそ外れたが,4月11日には一軍に登録され,4月12日対横浜1回戦(神宮)に早速セーブを挙げ,その後も堅調にセーブを伸ばしていった。ところが5月13日対オリックス2回戦(大阪ドーム),16日対東北楽天1回戦(フルキャスト宮城)と連続して1イニング2失点のヒヤヒヤセーブが続き,19日に一旦一軍登録を抹消される。8月10日に再登録されたが,10日対巨人13回戦(神宮)と12日対横浜12回戦(神宮)の2試合に登板しただけで,16日にまたもや抹消。左肩違和感ということだった。僅か11試合10 1/3イニングの登板に終わったシーズンのオフに肩の手術を決断する。

時を同じくするように五十嵐も右肘の腱を移植手術。「ロケットボーイズ」として名を馳せた二人の投手が揃いも揃ってリハビリに一年を費やすことが明らかになっていた2007年。二人の穴はあまりに大きくリリーフ陣は壊滅した。とにかく終盤のリードを守れない。救援陣だけで15の負け越しを喫し,チームは21年ぶりに最下位に沈んだ。

肘を手術した五十嵐は翌年から復帰を果たしたが,肩を手術した石井弘にはとにかく膨大な時間が必要だった。。術後初,実に777日ぶりとなる実戦マウンドは2008年9月27日。すでにイースタン・リーグの最終戦であった。一軍では依然として石井弘の抜けた穴を佐藤賢,高井雄平,岡本秀寛,田中充,丸山貴史らが埋めることすらできずにいた。ベンチ入りメンバーにサウスポーが一人も居ないという事もあった。

高校時代石井弘とバッテリーを組んでいた相川亮二がスワローズにFA移籍してきた2009年はイースタンで13試合に登板するまで復調し,同年オフの秋季キャンプにも志願参加した。
「ロケットボーイズ」の相方五十嵐がメジャーへ移籍した年に,2006年以来4年ぶりに春季キャンプを一軍で迎えたが,今度はプールトレーニング中に右足親指裂傷で離脱。一軍復帰どころか二軍戦登板も7試合に留まってしまう。これで4年間一軍出場なし。2006年に15000万円あった年俸は11000→6600→4000→2800→1000万円と,1/15にまで減俸となっていた。

そして2011年。一軍では長年チームのアキレス腱だった左の中継ぎセットアッパーとしてルーキーの久古健太郎が台頭した。赤川克紀も左の中継ぎから結果を残し,日高亮と合わせて3人の左腕がプロ初勝利を挙げていた…。
そして2011年9月29日。石井投手、現役引退のお知らせ


前半から目覚ましい久古の活躍に,これでもう弘寿の復活に頼らなくてもいいのかな・・って思いを心のどこかで抱かずにはいられなかった。

もしもあの時野手に転向していたら・・・
もしもあの時メジャーに渡っていたら・・・
もしもあの時WBCに選抜されていなければ・・・


何が弘寿の運命を変えたのかは分からない。ただし丸5年間の長期に及ぶリハビリ生活がいかに過酷なものだったのか。「肩のトレーニングで悩まなくていいと思ったらすっきりした部分もある。」この言葉に込められているのだと思う。

あれだけ強く描いていたメジャーへの夢は,いつしか「もう一度神宮のマウンドに」という夢へと変わっていた。それに向かって最後まで懸命にリハビリに取り組んでくれた。昨年のファン感謝デーのソフトボール大会で相川−石井弘の東京学館バッテリーが誕生したが,弘寿が捕手を務めたということに,こういう強い意志があったんじゃないかなぁ・・?なんて今になってみれば思う。

スカウトとしてプロ野球選手・石井弘寿を見出だし,二軍監督として野手・石井弘寿までも見つめた小川淳司監督の視線の先にある神宮球場のマウンドで,相川先輩のミットめがけて,最初で最後の懇親のストレートを投げ込む背番号61―。

これだけ苦しんだ壮絶な野球人生。野球の神様はきっと弘寿のためのラストシーンを用意してくれるにちがいない―

石井弘寿年度別成績 ※2008年以降はファーム
年度試合勝利敗北セーブ打者投球回被安被本与四死三振失点自責防御率
1996131004160139333.38
19971000132162229.00
199925010141282/3326272121206.28
20004543031876 1/3667396829283.30
20013923117539 2/3316254023153.40
200269625341892/36371510915151.51
200336611182451/3374166110101.99
20043842520152 2/3385116912122.05
200561433728673 2/3516199116161.95
20061100642101/382414554.35
33827155517404261/3334441764841361262.66
20081000411000000.00
20091301055121315131075.25
20107010325.2100637711.12
201161002967043434.50


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| Comment(2) | TrackBack(0) | SWALLOWS | at 00:21 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
愛を感じるね。
本人にも読ませたいね。

じゃ、最終戦だぬ!
Posted by まんぱん at 2011年10月03日 14:16
>まんぱんさん
愛の告白です。
ほんと色々ありました。弘寿は。
個人的にもw
Posted by マーサ at 2011年10月04日 00:06
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