チームの連覇を見届けてベテランたちが相次いで現役を退くことに。
ヤクルトの内川聖一内野手(40)と嶋基宏捕手(37)が28日、東京都内で記者会見し、今季限りでの引退を発表した。
ともに今季は1軍での出場試合が1桁にとどまった。内川は決断の理由について「第一線での野球は厳しいと感じた」と説明した。
通算2185安打の内川は、大分工高からドラフト1位で2001年に横浜(現DeNA)に入団。08年には右打者最高打率の3割7分8厘で初の首位打者に輝き、ソフトバンクに移籍した11年には史上2人目のセ、パ両リーグでの首位打者となった。昨年からヤクルトでプレーし、「22年間、プロという世界で野球ができたことを幸せに思う」と笑顔で話した。[ 9/28(水) 16:50配信 時事通信 ]
7.内川聖一(2021-2022)
ソフトバンクを退団し,2020年12月8日ヤクルトと入団締結。背番号は同学年の田中浩康退団後空き番となっていた「7」。年俸は2億円減となる5000万円と大幅減となったが,横浜時代に指導を受けた杉村繁一軍打撃コーチがいること,自身の打撃の参考にもなる青木宣親,山田哲人がいることなどから,日本一チームから2年連続最下位チームへの移籍を選んだ。
2021年。新型コロナの影響で新外国人選手が来日すら出来ないという状況にあり,3月26日阪神との開幕戦に「5番一塁」で先発出場。しかし3月31日新型コロナ濃厚接触者判定を受け登録抹消。4月16日に復帰するも僅か3日後の19日に上半身のコンディション不良で登録抹消。一軍復帰に約一ヶ月要した。しかしその頃にはすでにホセ・オスナが一塁のレギュラーとして完全に定着しており,内川の出番は代打に限られていた。
それでも7月9日広島戦(神宮)でヘロニモ・フランスアから移籍後初となるサヨナラタイムリーを放ち,内川のバットコントロール健在をアピール。
結果的にソフトバンク時代から内川の所属するチームは5年連続で日本一に輝き,「1人5連覇」を果たした。
2022年は西都キャンプからのスタート。イースタンで主に4番として.333近い高打率を残していたが,なかなか一軍からのお呼びはかからなかった。それでも7月12日。チームが新型コロナウイルス陽性判定を受け選手が大量に離脱したことで一軍昇格。7月14日中日戦(バンテリン)に「3番レフト」で今季初出場。公式戦ではソフトバンク時代の2015年10月5日楽天戦以来実に7年ぶりとなる外野手としてのスタメン出場だった。チームの救世主を期待されたが14打数3安打,打率.214。内川としては寂しい数字は否めなかった。7月20日巨人戦(神宮)のゲーム途中で退くと翌21日に登録抹消。「第一線での野球は厳しいと感じた」とNPBからの引退を決意した模様。
【記録】
・2000試合出場:2021年7月6日阪神戦(神宮)史上53人目
45.嶋基宏(2020-2022)
2019年オフに他球団で出場機会を求めるため楽天球団に自由契約を申し入れ,11月15日ヤクルトへの入団が発表された。背番号は「45」。
2020年。3月21日阪神との練習試合(神宮)で中田賢一から死球を受け,右手の親指付近を骨折。ただ新型コロナウイルス流行の影響で開幕が延期されており,開幕には間に合った。6月19日中日との開幕戦(神宮)でスタメンに名を連ねたのは嶋だった。この日の試合前の練習で中村にアクシデント発生。急遽スタメンマスクを託された。しかし7月11日巨人戦(ほっともっと)で守備中に負傷。試合後の診察で右足舟状骨骨折が判明し,翌12日に登録登録抹消。実戦復帰まで2ヵ月半を要し,一軍復帰は10月3日。怪我に泣き自己最少の20試合の出場に終わった。
2021年は西都キャンプからのスタート。オープン戦中盤で一軍合流したが,開幕一軍メンバーからは外れていた。ところが開幕5戦目の試合前に西田明央のコロナ陽性が判明し,ファームの試合に出場していた嶋が急遽一軍合流となった。試合出場は前年よりも更に少ない15試合にとどまったが,自ら第3捕手という役回りに専念し,ベンチではチームのムードの盛り上げ役に。チームは6年ぶりのリーグ優勝を果たしたが,チームメイトは誰もが影のMVPと嶋の貢献を称えていた。
日本シリーズでは中村悠平が全イニングマスクを被ってMVPを受賞。出番は無かったが嶋にとっては楽天時代以来8年ぶりとなる日本一を掴んだ。シリーズ終了後,球団は嶋の野球に取り組む姿勢や,ベンチでの振る舞いを高く評価し,選手兼任コーチとしての契約を打診。
2022年は捕手兼コーチ補佐として一軍に帯同。6月3日古賀優大に代わって一軍登録。6月24日巨人戦(神宮)でチームが大量リードした展開で初めてマスクを被ったが,26日に松本直樹と入れ替わる形で出場登録抹消。捕手にコロナ陽性者が出たことで7月12日に再び登録となったが,18日内山壮真の復帰をもって登録抹消。結局試合出場は1試合のみとなっていた。
「昨年の優勝した後、今シーズンは兼任。今年1年やったら、という覚悟はできていた。そういう思いで臨んだ1年だった。そのタイミングだなって思っていた。まだやりたいなって思う日もあれば、しんどいと思う日もあって、その繰り返しで。少しずつ夏過ぎから、今年のこのタイミングなのかなと強くなった。そういう思いを抱きながらプレーするのも失礼。引き際は大事だと考えていた」「僕はもともと捕手をやったことなくて、大学2年から始めた。そこが大きな分岐点。楽天に入団したことも、野村監督に捕手のイロハを教えてもらって、我慢してつかってもらった。そういう分岐点に、いい人とめぐりあえて、いい指導をしてもらって、それが今の僕につながっている。16年間を一言で振り返るのは難しいけど、すばらしい人に巡り会えたのが1つの要因かなと思う」と語り、「いろいろ言われすぎて、1つは言えないけど、どれだけミスをしても、我慢強く使ってもらった。いつも捕手を育てるのは、何年もかかるといって、僕を使い続けてくれた。それに応えたいと思ってやってきた。本当に感謝しかありません。ありがとうございましたという報告をしたい。これから僕も野村監督のような名将と言われる指導者になりたい。これからも頑張っていきたいということも言いたい」
「スワローズにきて…最初の…。仙台を離れて、家族を残して、妻には非常につらい思いを…大変な思いをさせてしまったので、子どもたちの成長も近くで見届けることもできなかったので、これから少しは時間ができると思うので、子どもたちの成長をしっかりと見届けていきたい。16年間いい思いもしんどいときもありましたけど、それを支えてくれた方に少しずつ恩返しができるように、できることをやっていきたい」
シーズン序盤から内山壮らに積極的に助言を送る姿が見られたことはもちろん,松元作戦コーチが濃厚接触者で不在の期間は,攻撃時津監督の横に嶋の姿があり,コーチとしての信頼は相当厚いものになっていることを感じさせている。野村監督のような名将へ。まさにその一歩を踏み出した。
ヤクルトは29日、坂口智隆外野手(38)が今季限りで現役を引退すると発表した。
30日に記者会見する。オリックスとの合併に伴って2004年に消滅した近鉄でプレーした、ただ一人の現役選手。
兵庫・神戸国際大付高から2003年にドラフト1巡目で近鉄入団。オリックス時代の11年には175安打をマークして最多安打のタイトルを獲得した。16年にヤクルト移籍。今季は23試合の出場にとどまっていた。
通算成績は1544試合出場で1525安打、打率2割7分8厘、38本塁打、418打点。[ 9/29(木) 16:30配信 時事通信 ]
42.坂口智隆(2016-2022)
オリックスから減額制限を超える提示を受けて自由契約となっていた坂口の獲得合意が発表されたのは2015年11月13日。背番号は「42」。
移籍初年度の2016年。主に12番打者としてチームトップの141試合に出場。オリックス時代の2011年以来5年ぶりに規定打席へ到達し打率.295。リーグ7位の出塁率.375。6月2日日本ハム戦(札幌ドーム)で通算1000試合出場,6月8日楽天戦(Koboスタ宮城)で通算1000安打を相次いで達成。新天地で見事なまでに復活を果たしたと同時にヤクルトには人気実力共に欠かせない戦力となった。
2017年。96敗を喫したチームにあって,136試合に出場。打率.290,4本塁打,出塁率.364とチームを牽引。オフにはオリックス時代の2012年以来5年ぶりに1億円プレイヤーに返り咲いた。
坂口にとって転機となった2018年。
メジャーで活躍した青木宣親が7年ぶりにチームへ復帰。レフトにはウラディミール・バレンティン,ライトには高井雄平がおり,坂口は春季浦添キャンプから一塁の守備練習を始め,3月30日DeNAとの開幕戦(横浜)で「6番一塁手」としてスタメンに名を連ねた。夏以降は1番に定着。2番青木とのコンビで安打を量産。139試合に出場し,オリックス時代の2010年以来8年ぶりとなる打率.317。出塁率は.406。チームを前年最下位から2位に文字通り牽引し,新たに3年契約を結んだ。
開幕から悪夢が襲った2019年。
開幕3戦目の3月31日阪神戦(京セラドーム)。8回裏の第4打席で島本浩也から左手に死球を受けて交代。左手親指の骨折が判明し出場選手登録抹消。5月17日に一軍復帰するも,死球の影響で調子が上がらず6月9日に再び登録抹消。結局試合出場は22試合に留まり,打率.125,2打点という成績に終わってしまう。
それでも不屈の魂で不死鳥のように蘇った2020年。全120試合中114試合に出場し,2年ぶりに規定打席に到達。本塁打は自己最多の9本。10月19日阪神戦(甲子園)では史上129人目となる通算1500安打を達成。
前年オフに近藤一樹が戦力外通告を受けたことで,坂口がNPB最後の近鉄戦士となった2021年。再び阪神との開幕3戦目で悪夢に襲われてしまう。
には、開幕から先1番ライトで開幕スタメンに名を連ねていたが,2試合ノーヒットで6番に降格した3月28日阪神戦(神宮)。4回裏の第2打席だった。ジョー・ガンケルの投じた3球目。自打球が右膝付近に当たり,グランドに両手をつくようにして倒れ込んだ。苦痛の表情で打席に立ちファールで粘るも最後は三振。しかし次の守備に就くことは出来ず離脱を余儀なくされた。オリンピック中断期間中のエキシビションマッチで打率.438と結果を残し,リーグ戦再開となる8月14日から一軍復帰。公式戦の出場は25試合にとどまったが,坂口自身プロ入り19年目にして初めて所属チームの優勝を経験した。
古巣・オリックスが相手となった日本シリーズでは,第2戦で「9番ライト」で初出場。計4試合に出場し,日本一の瞬間はかつての準本拠地でもあるほっともっとフィールド神戸のレフトのポジションで迎えた。
2022年。春季キャンプから二軍で調整していたが,6月9日オリックス戦(京セラドーム)で初めて一軍昇格。6番レフトでスタメン出場し早速ヒットを放つと,スタメンあるいは代打で打率.300をキープ。坂口健在を見せていたが,オールスター後はヒットが出ず8月8日に登録抹消。
それでもファームで鋭い振りを見せつけており,終盤の精神的支柱としての再登録を願っていたが・・「寂しい思いもありますけど、自分で決断したことなので、最後まで野球をやり切って次のステージに向かいたいという気持ちです」と現役引退を決断したぐっち。
「ここ数年は覚悟しながら、まだ復活できると思ってやってきた。2軍暮らしが長くて若い子たちと一緒にやる中で、見られていることで体が動いた。一日一日、野球をうまくなろうと思えた。このチームで終われることが、まだ動けているうちに後輩たちに送ってもらえることが、自分の野球人生の幸せなのかなと。それが一番大きな決め手だった」
「ここ何年かは怪我もありましたし、成績も振るわない時があって、覚悟しながらの一年でした。体はまだ動きますし、「まだ、ある程度はやれるんじゃないか?」と思い始めた時に、自分は試合に出たい、レギュラーを取りたいという思いで、プロで20年間やってきたので、野球に対して、そういう気持ちで向き合ってしまっているのは違うんじゃないかと思い、決断しました。」
「始まりを作ってくれた球団。近鉄バファローズが無ければプロ野球選手になれていない。感謝して、1年でも(長く)名前が表に出るように頑張らないといけないと思ってやってきた」
そもそも入団の経緯も,2015年ドラフトで高山俊をあのまま引いていたら同じ外野手である坂口の獲得は無かったはず。そして今だから言えるけど最初はオリックス時代の風貌からチャラい印象をもっていた。でも全然そんなことなかった。優勝した翌年に加入した坂口。しかし前年打点王・畠山和洋が,前年首位打者・川端慎吾が,優勝を決めるサヨナラヒットを放った雄平が,さらに大看板の山田哲人までもが怪我で戦線離脱。一気に最下位に沈んだチームで「『東京』って名乗れるほどの花形はいない。オレらは『下町スワローズ』だ」とチームを鼓舞してくれたのが移籍1年目の坂口だった。そこから野球に取り組む姿勢,そしてその風貌美貌スタイル。すべてに虜になっていった。
サンスポの記事の一文
「19年は左手に死球を受けて骨折。拳を握るたび、グラブをはめるたびに激痛が走った。7月7日の誕生日で38歳となった。勤続疲労で全身が痛み、毎試合前と就寝前に痛み止めは欠かせない。「『治ってくれ』と思いながら飲んでいる。おまじないみたいなもの」。献身的に支えてくれるトレーナーや治療院の先生のおかげでグラウンドに立ち続けた。」
この文字を見て涙が出てきた。どれだけの痛みに耐えてここまでやってくれていたのか。そんなの全然見せずに気丈に振る舞うぐっちスタイル。不屈の魂で再び挑んだヤクルトに刻んでくれた歴史。多くのものを魅せてくれた坂口智隆。ありがとうございました。
【記録】
・1000試合出場:2016年6月2日日本ハム戦(札幌ドーム)史上477人目
・1000本安打:2016年6月8日楽天戦(Koboスタジアム宮城)史上283人目
・1500本安打:2020年10月19日阪神戦(甲子園)史上129人目
・1500試合出場:2021年8月15日DeNA戦(ハードオフ新潟)史上197人目