ヤクルトは9日、館山昌平投手(38)と畠山和洋内野手(36)が今季限りで現役を引退すると発表した。2人は13日に記者会見を開く。
「松坂世代」の館山は、神奈川・日大藤沢高から日大を経て、ドラフト3巡目で2003年にヤクルト入り。先発として活躍し、09年には16勝で最多勝に輝いた。ここ3シーズンは白星なし。今季がプロ17年目で、通算278試合に登板し、85勝68敗10セーブ、防御率3.32。
畠山は岩手・専大北上高からドラフト5位で01年に入団。15年には105打点で打点王に輝くなど、チームのリーグ優勝に貢献した。プロ19年間で通算1105試合に出場し、打率2割6分5厘、936安打、128本塁打、567打点。(記録は9日現在)。[ 9/9(月) 9:59配信 時事通信 ]
25.館山昌平(2003-2019)
1981年早生まれ38歳同学年。とうとうこの日が来てしまった。。タテの歩んだ野球人生と全く同じ時間を過ごしてきた。昨年から覚悟はしていたつもり。それでもいざ「引退」の2文字が現実となり,昨夜は心にぽっかりと穴が開いたような喪失感に襲われてしまった。この17年間当たり前のようにいたタテ。ここ数年は同年代が次々とユニフォームを脱ぎ,残された唯一の同学年の選手となっていた。同学年の選手がいなくなるということ。これは唯一無二の存在。それが館山昌平だった―・
それでも一晩開けて目にした館山のコメント。
「穏やかな気持ちです。自分の中では今年でおしまいと決めていた。この1年は、もらった大切な時間。この1年があったから、現役をすがすがしい形で終えられる」
「打者を欺くことなく、力勝負してきた。打たれることが多くなったけど、一切の後悔がない。最後まで技術に苦しみ抜けたことは、これからに生きてくると思う」この言葉がすべてを物語っている。そして次を見据えて歩みだしている。これで自分自身も少し落ち着けた気がした。
2002年ドラフト3巡目指名。いわゆる大卒の松坂世代。同期入団に高橋敏郎・小森孝憲。その4年前。高卒となる1998年のドラフトで指名されたのは石堂克利,牧谷宇佐美,高橋一正,丹野祐樹の4名だった。しかし高橋一,丹野はすでに戦力外を告げられていた。石堂と牧谷は一軍にも上がれず。松坂大輔を筆頭に多くの松坂世代がプロで活躍する中,ヤクルトだけは蚊帳の外感すらあった。
ルーキーイヤーの2003年7月19日に初の一軍登録。プロ初登板は7月20日中日戦(札幌ドーム)。1-8と7点ビハインドの9回表。いわゆる敗戦処理だった。8月10日巨人戦(東京ドーム)でプロ初先発。以降先発ローテーションに定着するも,9試合に先発して0勝3敗。好投を続けたものの白星はならなかった。
2004年2月12日。浦添キャンプで右肘靭帯を断裂。3月に右肘内側側副靱帯再建手術に踏み切ったため,2年目は一二軍ともに登板無し。
2005年4月7日に一軍復帰。4試合目の先発となった4月27日巨人戦(ヤフードーム)で待望のプロ初勝利。ヤクルトの松坂世代が白星を挙げたのは石堂に次いで2人目だった。7月30日阪神戦(甲子園)でプロ初完投初完封勝利。1年間ローテーションを守り10勝(6敗)。オフに2歳年上の女性と結婚。11月に右肘を再手術。
その影響から翌2006年は開幕には間に合わず,初登板は5月5日巨人戦(東京ドーム)。この試合に勝利するも以降3連敗と精彩を欠き,6月14日日本ハム戦(神宮)から中継ぎに転向。この試合でプロ初ホールド。6月27日中日戦(神宮)でプロ初セーブ。
2007年中継ぎ,先発,抑えと度重なる配置転換と起用法が定まらなかった一年。先発で好投するも援護に恵まれず,抑えでは救援失敗も相次ぎ,3勝12敗5S。それでも「前例がなく評価が難しかったが,数字にはあらわれない部分が多かった」と球団から評価された。
2008年からは先発一本に。前年と正反対となる12勝3敗の成績で自身初のタイトルとなる最優秀勝率投手を獲得。オールスターゲームにも初選出された。
2009年4月29日中日戦(ナゴヤドーム)で自身4年ぶり完投勝利。5月28日オリックス戦(神宮)で白星を挙げ,前年から続く連勝を12とし,金田正一のもつ球団記録を51年ぶりに更新。6月11日ソフトバンク戦(ヤフードーム)まで14連勝と記録を伸ばした。7月22日阪神戦(甲子園)で自身4年ぶりの完封勝利。後半戦1度登録抹消となったが,10月8日阪神戦(神宮)16勝目を完封で飾り,吉見一起と共にセ・リーグ最多勝のタイトルを受賞。
2010年は右足第4中足骨疲労骨折などで戦列を離れることもあったが,10月6日広島戦(神宮)でリーグ最多となる4度目の完封勝利を収め規定投球回に到達。防御率2.93はリーグ3位。
2011年は自己最高となる防御率2.04をマーク。7完投,3完封はいずれもリーグトップ。しかしながら夏に血行障害を発病。オフに右肘,右掌,右手中・薬指手術の手術を受ける。
2012年には,3.4月(3勝0敗,防御率1.85),9月(4勝0敗,防御率1.13)と2度月間MVPを受賞。シーズン2度の投手月間MVPは1995年4月,9月のテリー・ブロス以来17年ぶり。12勝(リーグ4位タイ),防御率2.25(リーグ5位)。しかし―
自身初となる開幕投手を託された2013年のことだった。2試合目の先発となった4月5日DeNA戦(神宮)で4回途中違和感を訴え降板。翌日に右肘靭帯再断裂が明らかになり,12日に自身2度目の右肘内側側副靱帯再建手術へ。6月には股関節関節唇損傷の修復手術も合わせて受けたことが明らかに。
2014年は一軍キャンプスタートも,2月25日ロッテとの練習試合(西都)に先発し12球で緊急降板。4月5日巨人戦(戸田)でも緊急降板。検査の結果4月10日右肘外側滑膜ひだ切除手術,右肘内側側幅靱帯再建及び右前腕屈筋腱縫合手術を受け,実戦復帰まで1年かかる見通しが明らかとなる。この年の夏にはスワローズカップの来賓で燕市に。
2015年6月28日巨人戦(神宮)で2年2ヶ月ぶりの復帰登板。
当時の見聞LOGには「館山がグラウンドに現れた瞬間に目頭があつくなりました。自然と湧き出た館山コール。無数の応援ボード。そして…9番ピッチャー館山のコール。感極まりました。。」とハッキリ書いてありました。
7月11日DeNA戦(神宮)。1019日ぶりの勝利投手。
ここから僅か3ヶ月間で6勝(3敗)。不死鳥の如く甦った館山の右腕でチームは14年ぶりのセ・リーグ優勝を遂げた。この功績はセントラル・リーグから3年ぶりとなるカムバック賞で讃えられた。
「2015年カムバックできたのは燕市の皆が夢を見て野球をやっているのを見て。僕も頑張ろうと思ってカムバックできた。皆のおかげ。みんなにお礼がしたかったので一人で来た。」2016年7月22日中日戦(ナゴヤドーム)で勝利投手。しかしこれが館山最後の勝利投手となるなんてこの時点では想像も出来なかった−。7月31日巨人戦(東京ドーム)で黒星を喫すると,8月14日巨人戦(神宮),25日中日戦(神宮)でも勝てず翌26日に登録抹消。9月29日DeNA戦(横浜)では自身5年ぶりのリリーフ登板を経験。
2017年4月6日阪神戦(京セラドーム),6月3日西武戦(神宮)と先発登板も勝利なし。
いわゆる抜け球が目立つようになった。針の穴を通すようなコントロールは見る影もなく,もはや指先の感覚が無いのだろうかと投球を見つめながら感じるシーンが多々あった。
開幕ローテーションに名を連ねた2018年も,4月5日広島戦(神宮),12日中日戦(ナゴヤドーム),30日巨人戦(東京ドーム)と3連敗。5月1日に登録抹消。8月22日広島戦(マツダ)で4ヶ月ぶり先発登板も,3回裏に鈴木誠也の打球を右腕に受け降板。翌日抹消。最終戦となった10月9日DeNA戦(神宮)に先発したがまたも敗戦投手。
2019年6月12日楽天戦(楽天生命パーク)に初先発するも3回2失点で敗戦投手。野球の神様がいるならば,もう1勝と願ったが叶わなかった。
もし神龍がいるならば最後の願いを叶えて欲しい。それはあと2つと迫った通算1000奪三振に挑戦する機会を与えて欲しい。
タイトル
・最多勝利:2009年
・最高勝率:2008年
・カムバック賞:2015年
・月間MVP:3回(2010年8月,2012年4月,2012年9月)
記録
・初登板:2003年7月20日中日戦(札幌ドーム)
・初先発:2003年8月10日巨人戦(東京ドーム)
・初奪三振:2003年8月10日巨人戦(東京ドーム)[ロベルト・ペタジーニ]
・初勝利:2005年4月27日巨人戦(東京ドーム)
・初ホールド:2006年6月14日日本ハム戦(神宮)
・初セーブ:2006年6月27日中日戦(神宮)
・1000投球回数:2011年7月19日横浜戦(横浜)史上324人目
・初安打:2003年8月10日巨人戦(東京ドーム)[河本育之]
・初打点:2005年10月11日横浜戦(神宮)[門倉健]
・初本塁打:2010年8月6日横浜戦(横浜)[大家友和]
・オールスターゲーム出場:4回 (2008年,2009年,2011年,2012年)