藤井という投手の存在を初めて知ったのは1995年春。
選抜大会で,愛媛・今治西のエースとして君臨し,ベスト4へ進出。ただその投球内容云々よりも,試合中に左肘を痛めた(左肘関節脱臼)印象があまりにも強かった。
夏もその怪我が癒えず甲子園出場はならなかったというのも印象に残っている。その後早稲田大に進学。左腕エースとして24勝を挙げていた。
藤井を再び注目するようになったのは1999年秋。
その年のドラフト会議で1994年の北川,宮本以降,1995年三木(上宮)・宮出(宇和島東),1996年伊藤彰(山梨学院大付)・岩村(宇和島東),1997年三上(敦賀家比)・五十嵐(敬愛学園),1998年石堂(愛工大名電)・牧谷(旭川実)と4年間高校生の上位指名が続き,久しく得られていなかった逆指名(当時)制度・・。実に5年ぶりにスワローズを逆指名してくれた選手が藤井だった。逆指名してくれた。ただそれだけで,藤井を応援したくなった。
迎えたルーキーイヤー。開幕一軍を果たすと,開幕2戦目に早速初登板。その後も中継ぎとしてブルペン待機し,比較的ビハインドの場面での登板こそ多かったが,失点を許さない。
迎えた4月29日対巨人戦(神宮)。延長11回5番手として登板。巨人打線を0に抑えると,その裏チームが佐藤真のサヨナラ打で勝利し,見事プロ初勝利を手にする。
ただプロという世界。無失点が途切れた5月10日対広島戦から調子を落とし,25日には二軍落ち。調整を経て8月16日に再び登録されると,終盤の10月9日まで一軍帯同。四死球で走者を許し,リズムを乱す投球が多かったように思えるが,奪三振は36。率にして10.02と潜めた力はあった。
転機は二年目。その前のオフには川崎憲次郎がFA宣言をし中日に移籍。外国人投手ハッカミー・レモンも退団。伊藤智仁も肩痛で開幕には間に合わない。先発で計算できるのは石井一久ただ一人。どう考えても先発が足りない・・・開幕を目前に控え首脳陣も試行錯誤している日々だった。悩む若松監督に当時の巨人・長嶋監督が,
「若ちゃん,藤井が居るじゃない,藤井が」とアドバイスしたというエピソードがある。
3月20日のオープン戦対巨人戦(岐阜)の先発テストで5イニング自責2というピッチングで先発を猛アピール。
開幕4試合目となる4月4日の対巨人2回戦(神宮)にプロ初先発。強力巨人打線という苦しい相手だったがそこで一歩も退かない投球を見せ,惜しくも勝利投手こそなれなかったが,6回1/3を自責2という充分な内容。
その後の活躍はもはや説明不要であろう。巨人戦に滅法強く,「巨人キラー」と呼ばれ,6月17日の対広島14回戦(福岡ドーム)でプロ初完封勝利。オールスターにも選出され,後半も閉幕まで好調を維持し,チームのリーグ優勝に貢献。26試合先発で14勝でセ・リーグ最多勝のタイトルを獲得,ベストナインを受賞。
中でも5月22日対巨人7回戦(東京ドーム)で,完投ペースで8回まで投げ抜いていたが,9回表大量リードの場面で打席に立ち,内野ゴロで一塁へ全力疾走したことで,元木や清原といった相手ベンチに野次られ,裏の投球でリズムを崩した試合は最も印象的である。
優勝・日本一を手土産に石井一がメジャー移籍した2002年。3年間空き番号となっていた背番号「18」を背負い,開幕投手の名誉も手にした。勝利数こそ14→10に減らしたが,投球回は前年を上回る195イニングで完投も5試合と,名実ともにエースの称号を手にするはずだった・・
が,チーム・ファンにとって,むしろ印象を悪くしてしまったシーズンでもあった。6月に開催されたサッカー日韓ワールドカップ期間中に,サッカーファンの藤井が観戦に出かけたものの,風邪をひき,ローテーションを乱してしまったからだ。
幸いワールドカップ期間は,サッカーに配慮した変則日程が設けられていたため,ホッジスが中4日の大車輪の活躍でその穴はさほど大きくなかったが,そのホッジスが最多勝。左腕ルーキーの石川雅規も新人王を獲得する活躍をし,藤井の成績が霞んで見えたのは事実。
そして選手生命の危機に立たされた2003年。キャンプ中から左ヒジに違和感を訴え調整を遅らせていたが,開幕5試合目となる対中日2回戦(ナゴヤドーム)に登板するも,3回途中に突如降板。試合後診断を受けた結果,「左肘靭帯断裂」という診断。シーズンを棒に振るい,厳しいリハビリ生活に突入する。
2004年。春季キャンプでは順調な回復をアピールし,故障から13ヶ月後の5月26日対中日8回戦(神宮)で,復帰初登板も,1回表に福留に3ラン本塁打を浴びるなど,藤井の本調子からはほど遠く,結局5回途中7失点で降板。ただ,チームの柱としての自覚からローテーションで投げ続けたものの,不安定な投球内容も多く,8月19日対巨人戦(東京ドーム)では,ゴロ処理の際に膝を痛め離脱。4勝6敗防御率5.51の成績だった。
2年の低迷を乗り越え,2005年はスワローズに藤井ありを再認識させてくれるシーズンとなった。
4月6日の対中日2回戦(神宮)で14奪三振の好投をきっかけに,安定感抜群の投球を披露。防御率・奪三振でリーグトップを独走し,7回を3失点以内にまとめるという「エース」の称号に相応しいピッチングが続いた。故障明けということもあったのだろう。8月までキープしてきた防御率2点台前半も,9月に入り調子を乱し,失点を重ね,最終的な防御率は3.43であったが,故障・リハビリからのまさに完全復活だった。
2006年4月16日対中日1回戦(松山)では嬉しい地元愛媛での初勝利を飾るが,石井一・高津の復帰で,チームの柱としての自覚が欠如してしまったのであろうか?!前年とは別人のような不安定な投球が続き,先発として試合を壊してしまうこともしばしば。8月10日には再調整のため一軍登録抹消。丁度1ヶ月後再び一軍登録されるが,中継ぎ降格という苦汁もなめた。
2007年も好投するが,打線の援護に恵まれない試合が目立ったが,7月4日の対阪神戦(甲子園)で通算50勝を達成。
オフチーム最多勝16勝を挙げたグライシンガーが巨人へ,2番目に多い9勝を挙げた石井一がFAで西武へ移籍したことで,その時点でチーム最多勝となった藤井に再び自覚を促し,若くなった投手陣を牽引することを期待していた,2008年1月11日。坂元弥太郎・三木肇と共に,北海道日本ハムの川島慶三・橋本義隆・押本健彦との3対3の交換トレードが両球団から発表され,スワローズを離れることになった。
杉内・和田・成瀬・渡辺俊・田中将大・涌井・石井一久などとの投げ合いが予告されれば,藤井本来の躍動感あふれるピッチングを展開してくれることだろう。
何より自身が自覚をもって野球に取り組めば,成績は自然とついてくるはずだ。陰ながら見守っていたい。
藤井秀悟。8年間本当にありがとう!
| 試合 | 勝利 | 敗北 | 打者 | 投回 | 被安 | 被本 | 与四 | 与死 | 三振 | 失点 | 自責 | 防御 |
---|
2000 | 31 | 1 | 0 | 137 | 32.1 | 23 | 5 | 18 | 2 | 36 | 18 | 17 | 4.73 |
2001 | 27 | 14 | 8 | 707 | 173.1 | 145 | 24 | 64 | 3 | 124 | 62 | 61 | 3.17 |
2002 | 28 | 10 | 9 | 789 | 195.2 | 167 | 25 | 44 | 5 | 171 | 72 | 67 | 3.08 |
2003 | 1 | 0 | 0 | 12 | 2.2 | 3 | 0 | 1 | 1 | 1 | 1 | 1 | 3.38 |
2004 | 15 | 4 | 6 | 356 | 78.1 | 91 | 16 | 28 | 7 | 73 | 53 | 48 | 5.51 |
2005 | 28 | 10 | 12 | 740 | 176.0 | 156 | 24 | 64 | 2 | 143 | 70 | 67 | 3.43 |
2006 | 27 | 7 | 8 | 553 | 128.2 | 124 | 15 | 45 | 6 | 88 | 64 | 63 | 4.41 |
2007 | 25 | 7 | 10 | 539 | 123.0 | 123 | 18 | 53 | 3 | 96 | 71 | 69 | 5.05 |