ヤクルトの伊藤智仁投手(33)が29日、引退を表明した。東京都内の球団事務所で多菊社長らと会談後、ヤクルト本社で会見し「3年もリハビリをやっていて、これ以上お世話になることもいけないと思った。けがとの闘いが長かったが、自分なりに努力してきた。11年間のすべて、どれもが思い出深い」と語った。今後は2軍の育成コーチとして後身の指導にあたる予定。
2003年10月26日。朝日新聞朝刊スポーツ面。日本シリーズ、ワールドシリーズともに第6戦前の移動日の記事がほぼ全面を占める中で、「チェンジ」と題しコラムが掲載されていた。
スライダーをもう一球
25日、埼玉・戸田であったコスモスリーグ、ヤクルト―巨人。復活をかけるヤクルトの右腕が1年ぶりに実戦のマウンドに立った。
伊藤智仁、32歳。昨年の10月24日に続く、現役続行テストだ。昨年は、右肩を脱臼した。
松井(ヤンキース)と同期の彼は、93年に新人王をとっている。しかし、故障を繰り返し、1軍登板は01年以来ない。それでも高速スライダーに魅せられたファン、チームは、幻を追うように復帰を信じてやまない。
この日、伊藤は打者3人に対し、計17球を投じた。直球の最速は109キロ。直角に曲がると言われたスライダーは、カーブと見分けがつかなくなっていた。
「引退」。頭によぎる2文字を、しかし、誰も口にしない。安田編成部長は「合格とは言えないが、個人的には試合で投げられただけで満足」。伊藤は歯がゆさを隠して「楽しかった」と繰り返した。
幻と現実。そのギャップに、誰もが揺れる。結論は28日以降という。
その夜、SWALLOWSホームページでその投球内容を知った。テレビでも、二軍の教育リーグでありながら、その一年ぶりの登板を私が確認した限りであるが、朝日・TBS・フジ『すぽると!』3局が報道してくれた。
智仁の勇姿に感動した。だが、そこには過去の躍動感は無かった。見た後辛くなった…。元気そうなその姿、でもどこか悲しい。そしてそれまでの苦しさを思えば想うほど、見ている自分までもが辛くなる。
「久々に違うユニホームの選手に投げて楽しかった。懐かしかった。」その言葉を語る目線の先に一体彼は何を見ていたのだろうか?野球を始めた少年時代、鮮烈なデビューを飾ったルーキー時代、神宮での雄叫び、家族、チームメート。いや、あの目はきっと苦しかった自分を見ていたに違いない。
2002年オフ。およそ一年半マウンドから離れた智仁に、球団は現役続行の判断材料としてコスモスリーグでの登板を促した。8000万という高額年俸がネックとなり、戦力外候補に名が挙がっていた。かつてのエースがマウンドに上がった。10月下旬の埼玉・戸田のグランドは条件として決して良いものではない。その大事なテストで、彼の投じた9球目は手元が滑ったのか、打者の上をすっぽ抜けていった。その瞬間彼はマウンドにうずくまった…。再び悲鳴をあげたのだ。診断は「右肩亜脱臼」。その時点で彼への最終テストは終わった。後日待っていたのは球団からの本社への転身すなわち戦力外通告。だが伊藤は、「あと1年」と球団に懇願した。彼の熱意に、「現役」への執念に球団も了承した。それと引き換えに8000万の年俸は1000万にまでダウンした。それでも野球がしたかった。ファンはもちろん、何より球団がその復帰を心待ちにしていたのかもしれない。
この時の球団の判断には心から感謝している。まだまだこの時点では完治には程遠かったに違いない。それを加味しての球団の判断。スワローズ球団の暖かさを改めて感じた。「悲劇の運命を背負ったヒーローに神様が与えた最後の猶予」あるサイトで伊藤智仁ファンはこう称している。まさにその通りだ。私自身もまだまだ投げれる。そう堅く信じていた。
だが…今回の印象は違った。私自身、投げている本人を見るのが辛くなってしまったからだ。
そして2003年10月29日。ついにその時は訪れてしまった。伊藤智仁現役引退。
伊藤智仁。2001年から鎌田祐哉が背負った背番号『20』を、1998年までつけていた投手だ。心を動かす熱投。気合いのガッツポーズ。相手打者をして打てないとまで言わせる高速スライダー。
1993年鮮烈なデビューを飾った。109イニングで自責点がわずか「11」。防御率にすれば「0.91」。見事新人王を獲得した。だが、そのシーズン中盤、マウンド上で突如激しい痛みが彼の右肩を襲った。以降2年半、一軍のマウンドには戻れなかった。
1997年不死鳥のようによみがえった。高津の前のセットアッパーとして、自身初の日本シリーズ登板も果たした。1998年から2000年にかけては、念願の先発に転向。石井一久(現ロサンゼルスドジャース)、川崎憲次郎(現中日ドラゴンズ)とともに「スワローズ先発3本柱」として、巨人戦をはじめ、神宮を湧かせた。
その典型として、最も記憶に新しいのは2000年8月5日神宮球場での巨人戦。2-0ヤクルト2点リードで迎えた7回表。先頭江藤が三塁前へのセーフティバントで出塁。松井は右前安打で無死一、三塁。清原には左前安打を打たれ2-1と、1点差に詰め寄られる。一気に追いつきたい巨人は高橋由にバントを命じる。打球は投手・伊藤、三塁・岩村両に処理できず無死満塁と、絶対絶命のピンチを招く…。ここから伊藤の本領が発揮された!7番・元木には4球目あわや逆転満塁かと思われる大ファールを放たれるも、三振。代打・マルティネスは最後スライダーで三球三振。さらに巨人の代打攻勢は続き、後藤。カウント2-2から意表をつくフォークで三者連続三振!絶体絶命のピンチを最小失点の「1」にしのいだ。仕留めた瞬間伊藤は渾身のガッツポーズ!まさに手に汗握る”熱投”であった。 →web
そしてまたもや、重度の怪我に泣かされた。2001年4月10日。甲子園での阪神戦。4イニングを投げたところで、右肩に異常を感じ降板…。それからもう神宮、いや一軍のマウンドに戻ってくることは出来なかった。
ガラスのエースは、アメリカ・クリーブランドで、日本のチーム・家族と離れ、孤独なリハビリ生活を選択した。2003年は谷川哲也コンディショニングコーチと二人三脚で復帰に向けたトレーニングを重ねた。いつその右腕が悲鳴をあげるか分からない不安・・・思いのままに動かない自分の体との葛藤・・・行かないなどと呼ばれ野球人生の大半は故障と戦ってきた。家族からはなれ、アメリカでの孤独なリハビリの毎日。けれども満足いく投球はついに出来なかった。
そして最後は戸田でたった17球でその現役野球人生に幕を閉じた。
何故か智仁が投げると味方打線が沈黙した。防御率が示すように相手を3点以内に抑えていても、その3点すら奪えない…。勝利投手というものになかなか巡り合わせてもらえなかったのも事実であった。一体、何が彼をこんな不運かつ過酷とも言えるような運命に導いたのだろう・・・。でもどうしてだろう、これほどまでに記憶に残る投手なのは・・・。
「いい仲間に恵まれた」智仁は語ってくれた。やはりスワローズならではである。もちろん球団にも改めて感謝する。昨年は一年であるが、智仁の希望を叶えてくれた。そして今年はトレーニング部門のポストを用意してくれた。
「トレーニングの分野で自分の経験を少しでも行かせればと思います。」岡林洋一(現二軍投手コーチ)も怪我とリハビリとの戦いだった。智仁もまた、二軍で懸命のリハビリを行う選手の精神的なサポートをしてくれるに違いない。あとは本人も言っているが技術面だが。
最後の一年、いや三年間不本意な形で終わってしまったが、私の中に「伊藤智仁」の輝きは決して色褪せることはないだろう。野球と関わることができる第二の人生も見守って行きたいと思う。
「ありがとう!伊藤智仁。11年間お疲れ様。」
2000年9月27日。私は神宮球場にいた。
ヤクルト6−3巨人 ○伊藤智(8-6) S高津(25) ●高橋尚(9-6)

この時点で、この試合が伊藤智仁現役最後の白星となるなんて誰が想像できただろうか?それを見届けていたというのも何かの運命を感じてならない。
【ヤクルト・伊藤智仁 通算成績】 | ||||||||||||
年度 | 試合 | 勝 | 敗 | S | 投球回 | 被安 | 三振 | 四球 | 失点 | 自責 | 防御 | |
1993 | 14 | 7 | 2 | 0 | 109 | 70 | 126 | 37 | 11 | 11 | 0.91 | |
1994 | 一 軍 登 板 機 会 な し | |||||||||||
1995 | 一 軍 登 板 機 会 な し | |||||||||||
1996 | 14 | 1 | 2 | 3 | 15 | 16 | 15 | 17 | 9 | 9 | 5.40 | |
1997 | 34 | 7 | 2 | 19 | 47 | 2/3 | 23 | 53 | 11 | 8 | 8 | 1.51 |
1998 | 29 | 6 | 11 | 3 | 158 | 2/3 | 114 | 154 | 66 | 53 | 48 | 2.72 |
1999 | 17 | 8 | 3 | 0 | 114 | 2/3 | 92 | 91 | 36 | 31 | 29 | 2.28 |
2000 | 18 | 8 | 7 | 0 | 109 | 102 | 107 | 32 | 38 | 38 | 3.14 | |
2001 | 1 | 0 | 0 | 0 | 4 | 4 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0.00 | |
2002 | 一 軍 登 板 機 会 な し | |||||||||||
2003 | 一 軍 登 板 機 会 な し | |||||||||||
11年 | 127 | 37 | 27 | 25 | 558 | 421 | 548 | 199 | 150 | 143 | 2.31 | |
備考)新人王(1993)カムバック賞(1997)防御率3位(1998) |
