2000年12月25日

総括2000

136試合 66勝69敗1分 勝率.489 (ホーム34勝34敗1分 ロード32勝35敗) セントラル・リーグ第4位

3年ぶり首位に立つが夏場に失速
 ヤクルトには前年好成績の投手は翌年落ち目になるというジンクスがあるが、今年はそれを開幕早々裏書きした。昨年最多勝は12勝した来日1年目のハッカミーであったが、今年4月は1勝1敗。プロ入りしてから12年間で8勝なのに13年目の昨年、一気に9勝した高木も4月は3試合で0勝0敗だ。さらに昨年8勝の石井一は1勝2敗、川崎は3連敗のあと4月28日の巨人戦で初勝利を挙げた。川崎で勝ったヤクルトは30日までの巨人3連戦に全勝したが、4月末のヤクルトは9勝12敗1分と立ち遅れていた。
 それでも4月27日から5月5日まで8連勝したが、翌日から4連敗。一進一退を続けたが5月25日から4連勝し、優勝した97年以来の単独首位に立った。
 首位に立っても完投勝ちした投手はいない。継投策の連続だったが、そのヤクルトを支えたのが高津で、5月末までに15試合に登板して14セーブ。チームの19勝中の70%以上に貢献していた。

チーム完投勝利少ないが救援投手の奮闘目立つ
 6月5日まで首位にあったが、4位とはわずかに0.5ゲーム差。6日の中日戦に負けると一気に4位に転落し、その後再び首位に返り咲くことはなかった。
 6月から8月まで毎月負け越しで、7月15日を最後に借金生活が続く。6月24日の阪神戦で川崎が開幕から60試合目でやっとチームの初完投勝利を記録する。この継投策の連続の投手陣で、五十嵐が7月4日、プロ野球史上初の全部救援勝ちによる10勝1番乗りを果たした。
 打線は昨年の本塁打王のぺタジーニが6月を終わっても13本でトップの松井に9本もの差をつけられている。前年、20ホーマーを放っていたスミスに代わる新外国人のロブロは、6月を終わって打率.191で、1ホーマー、2打点だ。
 6月を終わって勝率.508で4位だったが、巨人には8勝4敗の勝ち越し。前年の巨人戦に11ホーマー28打点と大暴れしたペタジーニは完全にマークされ、12回戦まで2本塁打なのに、巨人戦では投手陣が好投する。6月末まで他球団には防御率3.94の投手陣が巨人戦では3.51。川崎は6勝のうち3勝が巨人戦だ。

チームの好不調の波大きく、巨人戦の勝ち越し生かせず
 8月には9勝14敗で、9日にはついに最下位に転落していたヤクルトだが、9月の声を聞くと急に強くなった。8月30日から8日まで6連勝だ。5月30日以来の4勝目を8月19日の広島戦であげた石井一が突然、立ち直ったのである。
 9月2日の広島戦で5勝目を挙げると、8日の巨人戦で初完投、15日の中日戦では初完封。打線では岩村が8月18日に7号を打つと、月末までに5本と復調。9月にも6本を打った。9月27日の巨人戦に勝ち、2試合を残しこのカードの勝ち越しを決定。巨人はこのヤクルト戦に負け越したので完全優勝を逸した。
 石井一は9月5勝0敗で、チームは16勝8敗と大きく勝ち越し。ヤクルトは10月に入ってからも5勝1敗で、6日には7月14日以来の貯金もできて、横浜に代わって3位に進出した。しかし、翌8日から4連敗を喫し、最後は66勝69敗で勝率.489。奇しくも99年と全く同じ成績で4位に終わった。チーム打率.264は3位、防御率3.62は2位だが、守備機会5162で失策はわずか46の守備率.991は、90年の巨人の.990を更新するセ・リーグ新記録であった。

2000年主な達成記録
▼通算150セーブ=高津、9月6日対阪神、3人目
▼通算1000奪三振=石井一、7月5日対巨人、103人目
▼通算1000投球回=石井一、9月28日対巨人、287人目
▼1イニング4奪三振=レモン、4月14日対広島、セ3人目の記録


Date File―宮本、岩村を中心に堅守を誇った守備陣

 ヤクルトのチーム失策数は46。リーグでは90年巨人の48を下回る最少記録となった。また、チーム守備率は.991で、こちらも90年巨人の.990を更新しリーグ新記録を樹立した。
 中でも遊撃手宮本の堅守が光った。内野の要として136試合に出場し、わずか4失策で守備率.994.。97年に鳥越(中日)が作った997のシーズン最高守備率には及ばなかったが、全試合に出場しての4失策は、91年池山(ヤクルト)に並ぶ最少失策記録である。
 三塁手岩村も成長を遂げた。昨年は73試合で12失策を犯し、守備率は.930に過ぎなかったが、今年はリーグ最多の129試合に出場し守備率.964。ヤクルトの三塁手でゴールデングラブ賞受賞は、91年の角に次ぎ2人目の快挙となった。
 プロ野球のシーズン最少失策は91年の西武の38で、守備率もこの時の.992が最高。来季はこの記録更新が目標となる。

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2000年12月23日

川崎FA移籍について考える

ヤクルトから中日にFA移籍した川崎憲次郎投手。

 ヤクルトからフリーエージェント(FA)宣言した川崎憲次郎投手(29)の中日入りが18日、正式に決まり、名古屋市内で入団発表があった。契約条件は三年契約で総額6億円(金額は推定)、巨人戦での成績などを盛り込んだ出来高払いつき。背番号は、星野監督が現役時代につけていた右腕のエースナンバー「20」に決まった。
 記者会見で、川崎は背番号「20」に、「星野監督と同じ番号をいただけて本当に光栄です」と緊張した表情で切り出した。新天地では「期待にこたえられるよう、打倒巨人と優勝を目指して、精いっぱい自分の投球をしたい」と抱負を語った。
 巨人戦で現役最多の29勝を挙げている川崎は、通算成績35勝の星野監督を目標に挙げ、「ぜひ抜きます」とも話した。
 同席した星野監督は「20番にふさわしい投手をずっと探していた。巨人戦を中心に、先発ローテーションの一角に入って、きっちり投げてもらいたい」と述べた。
 中日がFAで選手を獲得したのは、1994年オフの金村義明内野手、98年オフの武田一浩投手についで三人目となった。


ヤクルト退団に至った過程を本人のホームページ及び本人が生出演した12/22日の「プロ野球ニュース」でのコメントを通して考えてみたいと思います。(尚、メジャー移籍断念及び中日移籍を決意させた過程は除きます。)

中日ドラゴンズへFA移籍した川崎憲次郎投手から〜ファンの皆さんへ
http://www.jpbpa.net/jpbpa_f.htm?news/release/news00009.htm[2000/12/20]より一部抜粋

 今季プロ生活12年目にして初めてFA権を取得し、12月18日月曜日に中日ドラゴンズに移籍しました。最終結論を出すまでには、FA権を取得してから1ヶ月以上の日数を要したことになります。その間の自分の行動・発言は日々報道されてきた訳ですが、僕にとって一番辛かったのは、プロ野球を支えて下さっているファンの皆様、特にこれまで応援して下さったヤクルト・スワローズのファン、の自分に対する誤解、でした。ですから今回選手会のHP上で、僕がどうして最終的に12年間お世話になった最も愛着のあるヤクルト・スワローズを去り、中日ドラゴンズに新天地を求めたのか、をお伝えしたいと思います。
 (中略)
 今シーズン最終戦の後、僕の気持ちにあったのは、スワローズへの残留か、かねてからの夢であったアメリカ大リーグへの移籍でした。スワローズからはFA宣言までの間、数回に渡り条件の提示がありましたが、金額の問題よりもまずその対応にどうしても納得がいきませんでした。僕は今回の交渉に臨むにあたって、金銭的な条件よりもまず気持ちを一番に考えていましたが、残念ながら熱い気持ちはどうしても感じ取れなかったのです。詳細はお伝えできませんし、スワローズにも色々と言い分があるのはわかっています。しかし、少なくとも僕には熱意とか誠意とか「気」に繋がるものは感じられませんでした。一連の交渉経緯については、最終的にスワローズの球団社長から謝罪の言葉を頂きましたので、今は何もわだかまりはありませんし、条件についても球団として目一杯の提示を最後には出してくれたと思います。今の自分に言えるのは、大リーグからの条件や中日ドラゴンズからの条件を比較検討の上出たのであろうヤクルト・スワローズからの最後の条件提示が、仮に最初から出ていれば、FAをせずに残留していたかもしれない、ということです。一部の報道で「川崎、3年12億要求」と書かれたこともあり、あるインターネットの掲示板には「川崎、何様だ!」等ファンの怒りの声も多数あったことも知っています。ただ、皆さんに知って頂きたいのは、自分の望んでいた条件は3年12億というような無謀なものではなかったということです。最後に出された条件は、若松監督、コーチの皆さん、古田さん、高津さん、スワローズのチームメイト全員が球団に「川崎残留」を強く要望してくれたことがあって出てきたものです。僕は来季から今までのチームメイトを敵に回してマウンドに立つことになりますが、みんなが僕に対してしてくれた行為、気持ちを大切にしていきます。スワローズを去るにあたって心残りなのが、最後まで引き留めてくれたチームメイト、12年に渡り熱い応援を下さったファンの皆様との絆です。その心は忘れません。
 (中略)
 ヤクルトファンの皆さんには、大変申し訳ない気持ちで一杯です。これまで12年間の応援本当にありがとうございました。僕は中日ドラゴンズのピッチャーとして、チームを変わり来季からは敵となりますが、敵でありながらも皆さんに拍手喝さいをして頂けるような選手となるよう、これまで以上に頑張ります。そして、ドラゴンズファンの皆さん、来季からはジャイアンツ・キラーとしてのみならずチームを常時優勝に導けるような熱い投球をお見せしたいと思います。


フジテレビ「プロ野球ニュース」 ヤクルトとの決別の裏に…[2000/12/22]
三宅アナ:まず聞きたいのは、スワローズからの条件提示、最初納得がいかなかったというのは?
川崎:色々細かく言える所というのは少ないのですけど、僕は金額云々ではなくて、例えば「これでやってくれ」、「これでチームのためにやってくれ」と言われれば最初から判を押していました。ただ、色々な段取りでちょっとまずかった部分がありまして…
三宅アナ:その段取りが悪かった部分というのは?
川崎:FA前に(球団から)電話があったのは10月の後半だったんでね。10月29、30日あたりです。
三宅アナ:日本シリーズも終わるかという頃ですね。
川崎:ええ、もう終わってますね。FA解禁が11月1日でしたから。
三宅アナ:もっとその前から(連絡が欲しかった)ということですか?
川崎:そうですね。普通の契約更改でも結構忙しいのに、FAともなると余計忙しい時間が必要なんでね。ちょっと自分には本当時間が無かったなぁというのが。
三宅アナ:ということは、もし自分を本当に欲してくれているのであれば、もっと早めに言ってくれるだろうという気持ちがあったのですか?
川崎:やっぱり、確かにありましたね。
三宅アナ:結局最終的にヤクルトスワローズも他の球団と変わらないくらいの条件提示をしてきたわけですよね?
川崎:そうですね。はい。
三宅アナ:それでもやっぱりダメなんですか?
川崎:うん。あのぉやっぱり、お金の面ではすぐ忘れられますけど、まぁ気持ちの面ではなかなか忘れられませんていうのが…
三宅アナ:それはやっぱり最初の連絡が遅くてというそのへんの気持ちが?
川崎:そうですね。いかに自分を必要としてくれているか、そういう部分だったと僕は思います。
三宅アナ:それがもっと早く?
川崎:はい。もうちょっと早く来てくれたらなというのが…
三宅アナ:やっぱり、スワローズに残りたいという気持ちは結構あったのですか?
川崎:もちろんありましたよ。FAする前はスワローズ残留と言っていましたからね。
三宅アナ:気持ちはそう思ってた?
川崎:はい。
三宅アナ:それがなかなか来ない。どういうことだ。ということで気持ちがだんだん揺れ動き始めた。
川崎:そうですね。本当に必要としてくれているのかという…。
(中略)
三宅アナ:あと、対スワローズ。全力で潰しにかかると思いますよ。僕は。
川崎:う〜ん。やりづらいでしょうね。まぁでもそれはお互い様なので。まぁ僕もねぇ本当にやりづらいですね。
三宅アナ:今まで仲良かった選手がバッターボックス立つわけで。
川崎:そうですね。
三宅アナ:誰が嫌ですか?
川崎:いやぁやっぱり古田さんとかも嫌ですし、基本的には全員嫌ですよ。
三宅アナ:バッターって、川崎さんの球実際に見てる人ってそうはいないじゃないですか。一番見てるのは古田さんですよね。
川崎:そうですね。もうすべて分かってると思いますんで。まぁでも負けないように頑張ります。
三宅アナ:何かないんですか?古田対策。知ってますよ全部。こいつのシュートはこのくらい、ここに来るとか。
川崎:もう古田さんにはね、ホント打ってもらいますよ。(笑)
三宅アナ:打ってもらっちゃまづいじゃないですか、だって。
川崎:お願いしますって言って。(笑)
荒瀬アナ:対スワローズに対する自信というのは?
川崎:どうですかね。まぁでもやってみないとわかんないですからね。まぁこっちもでも精一杯やりますよ。
三宅アナ:来シーズンはどれくらい勝てると自分では思ってますか?
川崎:スワローズからですか?じゃなくてトータルで?いやぁわかんないですけど、でも2桁は勝ちたいですね。
三宅アナ:いやぁ、そんなこと言わずにもっともっと。星野監督見てますよ。だぁ〜んと。
川崎:背番号くらい。
三宅アナ:20勝。もう17じゃないですよ。今は。20勝。
川崎:3つ増えちゃいましたねぇ。(苦笑)
三宅アナ:あのぉ、先程ホームページで荒瀬が紹介しなかった部分が実はあるんですけども。これは是非紹介しておきたいということでちょっと読ませていただきます。「ファンの皆さん、マウンド上での僕の鼻の穴の拡がり方にご注目下さい。テレビの向こうでも鼻息が感じられるぐらいの、気合いの投球で頑張ります」皆さん今シーズンは川崎投手の鼻の穴に注目してください、とそんなことになってるんですけど。
川崎:(苦笑)頑張りますよ。僕の鼻息が見えるくらい。
三宅アナ:是非楽しみにしていますんで。川崎、中日で随分変わちゃったなぁなんて言われないようにひとつ頑張ってください。
川崎:頑張ります。
三宅アナ:プロ野球ニュースでも是非注目していきたいと思います。今日は本当にありがとうございました。
川崎:頑張ります。


争点;球団側の対応←最大の問題点!!
(1)1998年オフに、FA権利を2002年に取得する石井一と3年契約、2006年に取得する伊藤智と2年契約を結んでおいて、何故2000年に取得する川崎と複数年契約を結ばなかったのか?しかも,その年17勝で最多勝を獲得している。
(2)メジャー志向のあった投手に対して何故球団から積極的なアプローチがなかったのか?
(3)最初の交渉におけるダウン提示は、巨人戦以外(特に中日・横浜戦)の成績はひどかったこと、一年間通して働いていない(8月右肩痛で戦線離脱)ことを考慮すれば仕方ないかもしれない。しかし、FAの権利を取得した選手に対して、その年のみの評価をしたことは間違っていたではのではないか?過去12年間の実績・貢献度を加味した評価をすべきではなかったのか?
(4)FAを取得した選手というのは、いわば「働き盛り」。そんな選手に対して引退後の投手コーチの話をもちかけられてもなかなか実感がわかなかったのではないか?
(5)そして、新庄のFA獲得交渉に熱を入れたあまり、川崎への対応が余計おろそかになってしまった。
(6)監督・選手の強い要望を受けてからのものが川崎にとって最もショックだったのではないか?それが、最終的にヤクルトを出るということに結びついてしまったのでは?


「すべきだった」と、すべて結果論になるんですけど、(吉井はともかくとして)広沢の時も、「君の時代は終わった」というような球団側の発言が、本人に移籍を決意させたと言われてますよね。スワローズのフロントは伝統的に交渉が苦手のようです。金銭面では劣るのだから、誠意をもっと重視してほしい。選手がカネ目当ならそりゃとっとと出てけばいい。でもそれがすべてじゃないでしょ。選手にとって環境は大きな要素のはず。広沢は「巨人」という環境に適応できなかった。だから急に衰えてしまった。チームメートだって立派な環境要素。
 僕が川崎を信じていたように、球団もまた川崎を信じていたのだろう。「12年間スワローズに在籍し、コーチ手形を出しておけば、他チームに移籍するはずなどない」という過信がどこかあったのではないのだろうか。それが川崎側からすると球団の消極的な態度と感じられた。

とにかく、2001年のスワローズ及び川崎の成績を見てからでないと今回のFAの最終的な判断は下せない。「スワローズというチームは素晴らしい」と認識するか。「スワローズは本当に大きな柱を失った」と認識するか。決して後者であって欲しくはない。

 最後に、僕にとって川崎は小3の頃からずっと「エース」だった。もちろん「ガラスのエース」であった時期もあった。僕の中でスワローズのエース番号は「17」である。だから、広沢のようにはなってほしくはない。いや、そんな選手ではないはずだ。そりゃ、スワローズと対戦するときは「敵」だけど、そんな中でも温かく見守っていきたいと思う。巨人戦以上の真剣勝負を川崎には期待したい。

2000年12月12日

ヤクルトが新人選手の入団を発表

 12日、ヤクルトがドラフトで指名した選手と契約を結び、入団を発表した。(カッコ内数字は指名順位、「 」内は背番号)
(1)平本学投手(21)=立命大「15」
(2)鎌田祐哉投手(22)=早大「20」
(3)松谷秀幸投手(18)=沖縄・興南高「48」
(4)坂元弥太郎投手(18)=埼玉・浦和学院高「63」
(5)畠山和洋内野手(18)=岩手・専大北上高「33」
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2000年12月06日

入来、島田がヤクルト入団

 ヤクルトは6日、前巨人の入来智投手(33)と前横浜の島田直也投手(30)の入団を発表した。推定年俸はそれぞれ1200万円と3500万円。
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